鎌倉 青砥橋(あおとばし)

先日、とある歴史関連のFBグループのオフ会が鎌倉で開催されたので、「いざ!鎌倉」とばかりに、朝比奈切通しを経て鎌倉に入る「東ルート」を車で走っていました。

《青砥橋》

もうすぐ集合場所の鎌倉宮だなと思い、車を走らせていると、「青砥橋」という名前が視界にちらっと入ってきました。(写真①
①青砥橋
もしかして、この橋が、小学生の頃、逸話を聞いた有名な橋???
慌てて路駐し、その橋に駆け寄りました。

駆け寄ってよく見ると、その橋には大変失礼な言い方ですが、何の変哲もない、我が家の近所にもありそうな橋です。(写真②
②10m程度の何の変哲もない橋
※橋の左側にゴミの日用のネットも置いてある(笑)

実際、近くに石碑があったので確認すると、写真②の橋が、逸話としてメジャーなあの「青砥の10文銭」の史跡であることが確信できました。(写真③

③青砥橋を渡った直ぐのところに
立つ「青砥藤綱邸史蹟」

《青砥の10文銭》


逸話「青砥の10文銭」のおさらいをします。

今から800年前の13世紀のちょうど真ん中頃、鎌倉時代中期・第5代執権北条時頼(ときより)の鎌倉幕府に、青砥藤綱(あおとふじつな)という賢い御家人が居ました。

青砥藤綱は非常に優秀な官吏で、権威に全く捉われない公平なものの見方が有名でした。

その彼が、家の近くを流れる滑川(なめかわ)で10文銭を落としました。

政所(まんどころ)での執務の帰り道、もうとっぷりと日が暮れていた時の遺失事故です。

彼は従者に松明(たいまつ)を購入させ、その明かりの元、滑川に落とした10文銭を探したのです。(絵④
④滑川で10文銭を探させる青砥藤綱
※50文で買った松明を持っています

その松明(たいまつ)購入に掛かったコストが50文。

この話を聞いた世間の人たちは噂をします。

10文探すのに、50文出すとは、損な話ですの。

この人々のうわさを同僚から聞いた青砥藤綱は、笑いながら言います。

「確かに青砥個人としては40文の損だ。ただ、掛かった50文の代金は、その後天下の回り物になる。更に見つかった10文もまた、天下の回り物となる。つまり天下から見ると、今回の件で60文も回り物となっており、公(おおやけ)には1文たりとも損をしていない訳だ。」
「これを探さず遺失したままでは、青砥個人としても、公の天下としても10文の損をしたことになる。」

有名なこの話、松明買わずに、翌日明るくなってから探せばいいやんという素朴な疑問を持たれる方用に、50文は松明代ではなくて、川に入って探す人足代であったというストーリーもあります(笑)。

しかし、ひねくれものの私は、更にこれも「翌朝、人足雇わず自分で探して見つければ、10文は10文のままで個人的にも天下的にも損しないのでは?」
と青砥橋の上から、この小さな滑川を見ていて思いましたが、そういうけち臭い突っ込みはどうでも良いことなのでしょう(笑)。(写真⑤
⑤青砥橋から滑川水面を見る
結局、金銭の多寡は関係なく、大局観を持った大物の考えることは違うという意味合いで、この話は語り継がれて来た次第です。

《現代の青砥藤綱はいないのか》

さて、この10文銭事件、これだけリアリティのある青砥橋から落した滑川を眺めていると、ついつい現代のリアルではないサイバーの世界を考えてしまいました。

そう、580億円以上が、コインチェック社から20分以内に送金されたという仮想通貨不正送金事件です。

青砥藤綱、江戸時代以降、大岡越前守と並んで高く評された正義感のある官吏が、現代に居たら、この事件にどう対処するでしょうか?

彼の10文銭とは規模感が全然違いますが、お金はお金です。

きっと彼のことですから、10文銭(580億円)を滑川(ネット)から、すくい上げるのに、5倍の50文(2900億円!)を使ってでも、やるのでしょう。

「580億円をネットの水底に沈めておくわけには行かない!」という信念の基に、2900億円のコストを掛けるくらい気概のある現代の青砥藤岡さんはいらっしゃらないのでしょうか?

このようなマイナー史跡でも色々考えさせられるとは、さすが鎌倉は奥が深いと関心しながら、路駐の車に改めて乗り込み、皆が集まる鎌倉宮へと走らせました。




《おまけ》

鎌倉宮で、無事皆と合流できた私ですが、鎌倉宮では、写真⑥のように、皆さまのワンちゃんを預かって、境内に入らず待っていました。
⑥ワンちゃんと鎌倉宮の入口で待つ筆者
既に私は見ている鎌倉宮のある有名なものを、なるべく多くの人に見てもらいたいので、この写真⑥状態でその人達が見て帰ってくるのを待っているのです。

その見てもらいたいものは、下記のBlogリンクにありますので、宜しかったらご笑覧ください(笑)。

今回も最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。



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中尊寺金色堂 小話⑧ ~東北調査紀行4~

東北調査紀行は平泉の中尊寺等、奥州藤原氏の関連史跡を見た後、時代は前後しますが、前九年の役で、源頼義(よりよし)によって滅ぼされた安倍氏の史跡を見て廻りました。(絵①
①衣川柵で安倍貞任(さだとう)を追う源義家(よしいえ)
「マイナー・史跡巡り」で、前九年の役について2話のシリーズで取り上げました。
(シリーズ前半はこちらをクリック、後半はこちら

シリーズ中の登場人物が複雑で分かりづらいというご指摘を多々頂きました(笑)。

このTsure-Tsureは、日本史理解が主眼ではないのですが、やはり分からないより分かった方が読み進めやすいことから、前九年の役の相関図を図②に再掲しておきます。これから読み進める上で人名がこんがらがった時に、この相関図の中に人物名を探してみてください。そうするとグッと中身が分かって面白いですよ。
②前九年の役(1056年~1065年)人物相関図
1.並木屋敷(衣川柵)

さて、平泉中尊寺から車で20分も走ると、並木屋敷(衣川柵)という場所に到着します。相関図①安倍頼時の政庁があった場所です。

奥州藤原氏初代清衡(きよひら)が平泉に開いた「柳之御所」は前回の紀行文でも掲載しましたが、北上川の岸辺の広大な土地を使った奥州王国に相応しい規模感がありました。(こちらの写真を参照

ところが、これとは対照的に安倍頼時の政庁跡は、殆ど影・形がありません。(写真③
③安倍氏の政庁があった並木屋敷(衣川柵)
ちなみに上の写真で、私が立木を支えているのは、この立木、根本が腐って、この場所でゴロンと倒れていたからです。一生懸命持ち上げて押さえながら写真に納まったものです。愛情を込めて言いますが、流石マイナー史跡ですね(笑)。

ちなみに、この写真左側にある看板の説明を以下に掲載します。(説明看板④
④並木屋敷(衣川柵)の説明看板
正直、この時点の私には、ここに書かれていることが、どういうことなのかさっぱり分かりませんでした。このマイナー史跡が、日本史のメインストリームにどう絡むのかを、私のようなあまり知識の無い人にも分かりやすく説明して頂けると助かるのですが・・・(笑)。

勿論、帰宅後一通りBlogを描くために調査した後である今は分かりますので、解説させてください。

この看板には奥州王国の「前九年の役」で討たれた安倍氏の話と「後三年合戦」で討たれた清原氏の話の2つが1度に書かれています。

まず前半の文章、図②に出て来る安倍頼時、彼の死後は息子の安倍貞任(さだとう)が治めていた18年間、前九年の役で、ここを貞任が撤退しなければならない時まで、政庁だったことが書かれています。

また、看板後半の文章は、前九年の役が終り、安倍氏が滅んだ後、1083年に始まる後三年合戦に入る頃までの20年間、清原氏嫡流の居城だったようです。

図⑤は、後三年合戦に出て来る人物を超簡単に書いたものですが、看板に出て来る清原武則(たけのり)は一番上、前九年の役で最後安倍氏と対立する代表者で、看板に出ている武貞(たけさだ)は、その息子、平泉中尊寺を建立した藤原清衡の継父です。そして、やはり看板に出て来る真衡(さねひら)は、その継父の長男です。
ちなみに後三年合戦では、この真衡、清衡、家衡(いえひら)の3兄弟(清衡だけ父違いですが)が争うのです。(詳細はこちらのシリーズ
ちなみに、2番目の清衡は岩手県江刺市に住んでいました。また家衡は秋田県横手市です。皆バラバラなのですね。
⑤後三年合戦を中心とした人物相関図(再掲)
そして、看板の最後に書かれている衣川柵が安倍氏の時代は必要無かったが、清原氏の時代は必要で、衣川柵と呼んだと書かれていますが、これは結局前九年の役で滅ぼされた安倍氏の残党がまだこの辺りに残っていて、ゲリラ戦等を清原氏に仕掛けてくるため、柵が必要だったと言いたいのだと思います。個人的にはこの記述は、この看板では不要ではないかと思いますが・・・。

かなりややこしい看板ですね(笑)。

2.安倍氏と安倍首相

さて、実はこの前九年の役で滅ぼされてしまった安倍一族、現在の安倍晋三首相と繋がっています。

⑥安倍貞任
と申しますのは、安倍首相ご自身が、2013年7月の参院選で岩手県入りした演説の中で「安倍貞任(さだとう)の末裔が私になっている。ルーツは岩手県」と話しています。(絵⑥

安倍首相は、前九年の役の後半の首謀者(前半は貞任の父・頼時であるが戦死)として戦死した貞任の末裔と言っていますが、貞任ではなく兄の宗任(むねとう)の子孫だろうと言う人がいます。(図②参照、ここをクリック

というのは、前九年の役を生き延びた宗任は、役の後、京に連行され、後に伊予(愛媛県)に流されます。安倍首相は山口県の一族ですから、この伊予に流された宗任の子孫の誰かが、長州(山口県)に落ち延び、安倍首相の先祖になったのではないかという説です。

ただ、真相は分かりません。首相が演説で言うのですから、やはり首相安倍家の言い伝えで貞任の末裔なのかもしれません。

貞任は、180cmを越える大柄な体躯の持ち主で、概して東北の蝦夷人は中央の人よりも体躯は大きいようですが、その中でも特に大きかったようです。安倍首相も体大きいですよね。絵⑥で見ると、心なしか表情が安倍首相に似ているような気もします(笑)。

3.戦中における雅(みやび)な句のやりとり

前九年の役で、この衣川柵を攻める源頼義の息子が、源氏伝説のヒーロー、義家(よしいえ)です。

前九年の役の後半戦、頼義・義家は激しくこの衣川柵を攻めたてます。耐えきれなくなった安倍貞任、北の厨川(くりやがわ)柵に向けて、敗走を始めます。

まだ20歳前後の義家、総大将の貞任の逃走に追い縋り、馬上から大音声(おんじょう)で以下の下の句を貞任へ投げかけます。(絵①参照
「衣のたて(館)はほころびにけり」

すると、貞任は、同じく馬上でニッと笑い、
「年を経し糸の乱れの苦しさに」
と上の句を返して来るのです。

義家は驚きます。京の武人の中にも、連歌のような雅(みやび)な振る舞が出来る人は少ないのに、この蝦夷の地で、この戦況の中、機微と優雅さに満ちた武人に会えるとは。(写真⑦ 絵①参照
⑦ねぶたでの貞任と義家の衣川柵追撃シーン
※返り血を浴びた貞任は鬼になります
とても雅な感じの貞任ではないです(笑)
敵味方の2人で作った上下の句を併せると以下のようになります。

年を経し糸の乱れの苦しさに、衣のたて(館)はほころびにけり

衣川の館(たて)衣類の縦(たて)糸をかけて「衣のたてはほころびにけり」と義家は詠んだのですが、それに対して貞任は、組織の乱れと、衣類の乱れが見苦しいとかけて返句したのです。

つまり
「経年劣化で糸が悪くなってくると、衣類はほころんでくるものよ」
と言う表層的な解釈の裏に
「安倍一族という組織も何年も経つと乱れて来て、とうとう衣川柵は今日ほころんでしまった」
という意味深な内容を込めた歌が完成したのです。

流石、安倍首相のご先祖ですね。多分、安倍首相はこの歌を心に刻んで組閣をしていることと思います(笑)。

4.厨川柵(盛岡)へ

さて、見るべきものが少なくても、想像は果てしなく広がる衣川柵の私ですが、既に18時を廻っていました。(写真⑧
さて次にどこに行こうか? 宿すら予約していない弾丸旅行です(笑)。
⑧衣川柵で次は何処に行こうか
考える私(笑)
やはり、貞任が逃げる先、厨川柵だろうと考え、厨川柵がどこにあるのかググります。
すると、それはここから100㎞は離れた盛岡の北側にあることが分かりました。

早速、Webで盛岡市内のシティホテルに予約を入れ、近くのガソリンスタンドで、給油してから東北道を盛岡へと走らせました。

20時過ぎには、盛岡市内のホテルに到着。(写真⑨
その後、じゃじゃ麺を食べに市内に出ますが、その時のじゃじゃ麺のレポートは既に、このBlogに掲載しております。興味のある方はこちらをご笑覧ください。
⑨盛岡市内は「ホテルエース」という
シティホテルに宿泊しました
次回、東北紀行2日目は、前九年と奥州合戦の史跡・厨川柵から始まり、次に一気に戦国末期の九戸城へと時代が飛びます(笑)。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。次回をお楽しみに。




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初詣 ~白幡八幡大神~

あけましておめでとうございます!!

少々体調を崩しまして、寝てばかりの正月です(笑)。

年末・年始の食べ過ぎ、飲みすぎの重い体を少しでも動かさなければと思い、近所のスーパー「いなげや」に買い出し、ついでに初詣ということで、何の予習もなしに来たのが、「白幡八幡大神」です。(写真①
①白幡八幡本殿

しかし、なーんもこの神社、由緒に関する看板が立っておらず、写真②のように「平(たいら)地区の氏神様となります。」とあるだけ・・・・唖然((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル(写真②
②非常に簡素な説明看板

源氏の象徴旗である白幡の大神ですよ!!そして地区の名前が平(たいら)、これで何も無い訳ないでしょう!?(笑)

と、買い出しから帰り、Wikiで調べると、やはりありますねー(笑)。
世間の神社は、どうしてこういう歴史を自社の看板として建てないのでしょうか?大方の人は興味がないから?宗教と由来は別問題だから?

少々哀しくなります。マイナーでも、立派な史跡なのですから、やはり建てた時の歴史を看板でも石碑でもいいので、語って欲しいですよね。

今回訪ねたこの史跡は、前九年の役と関係が深いようです。源頼義(よりよし)です。(絵③
③酒を酌み交わす源頼義
※拙著blog「かわらけ」の中の写真⑦の抜粋

詳細は是非、拙著Blogの「前九年の役」をお読みください。息子の義家(よしいえ)後三年合戦を起します。また義家はこの前九年の役の時、18歳で頼義の負け戦の時に鬼神の活躍をし、後に軍神としてのレジェンドを作り上げます。

また、源頼朝(よりとも)も、奥州合戦で奥州藤原氏4代目の泰衡の首を八寸釘で打ち付ける所作は、頼義が前九年の役で安倍頼時に対して施した故事に倣ったとされています。つまり頼義は、奥州王国と源氏との100年以上に渡る確執の端緒を切った漢(おとこ)なのです。

で、この頼義が鶴岡八幡宮に、この奥州征伐について戦勝祈願をしました。

そして鶴岡八幡宮から10里(約40㎞)毎に幣(ヌサ)を地に突き刺して仙台にある多賀城入城を果たしたようです。
幣はご神体を顕すとしています。良く家を建てる時に、地鎮祭の時に見かけます。(写真④
④幣(ヌサ)
この白幡八幡大神の地は鶴岡八幡宮から奥州王国へ向けて一番最初の幣刺し地点となります。確かにちょうど鎌倉から旧鎌倉街道を使って40㎞くらいに、私の家やこの神社があります。この次の地点は、以前Facebookで取り上げた大宮八幡宮かな?

この白幡神社の建立の1つの説に、1056年にこの頼義が幣を刺したところに、133年後の奥州合戦の時に頼朝が神社を建てたというものがあります。『新編武蔵風土記稿』

私は、この説を支持したいですね。というのは拙著blogでも書きました通り、頼朝は100年以上前の前九年と後三年を徹底的に研究し尽して、ご先祖、頼義・義家が完全には倒せなかった奥州王国を完全に潰そうとしたのです。そして、この2人のご先祖が実施したこと以上の事を全てにおいて実施しようとした行動パターンが見られるのです。(詳細はこちらを参照

そう考えると、頼義が幣を刺して簡易に神様を奉る場所に、頼朝はちゃんと神社を建てて頼義らよりも、しっかりと奥州討伐をしたいと考えてもおかしくないと思いませんか?(写真⑤
⑤白幡八幡大神の看板

あと、写真④の看板上部に「稲毛惣社」と書かれているのが分かりますか?

この稲毛が、初詣前に私が買い物をしたとお話した、スーパー「いなげや」と関係が深いのです。(写真⑥
⑥いなげや 
※小金井本町店
このスーパー、東京、神奈川の北部に住んでいる方なら、結構知っていらっしゃるのではないでしょうか?

稲毛氏は、生田緑地にある升形城の主なのですが、長くなりますので、また別のTsure-Tsure特集とさせて頂きたいと存じます。

もし、皆さまの廻りにも「村の鎮守です。」とか、「地区の氏神です。」としか書かれていないような神社・仏閣があれば、是非史実を掘り返してみてください。

すると意外と歴史のメインストリームと繋がっている場合があります。今回もそうですが、それらが見つかると、まるでダイヤの原石を見つけたように嬉しいものですよ。

是非、この初詣の時期に、近所の初詣先についてちょっと調べてみませんか?

最後までお読み頂き、ありがとうございました!!




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中尊寺金色堂 小話⑦ ~東北調査紀行3~

今回は、中尊寺金色堂から始まった東北調査紀行の第3弾です。
※第1弾、第2弾はこちら⇒東北調査紀行1東北調査紀行2

前回、平泉の中尊寺を訪問した後、義経の最期の地とされる高館を訪問しました。(写真①
①高館義経堂から歩いて「柳之御所跡」へ向かう
そして、写真①の場所まで戻ると、そのまま南東方向へ歩き出し、奥州王国の政庁があった場所、「柳之御所(やなぎのごしょ)跡」に向かいました。

今回は、ここから話を続けます。

1.柳之御所跡

さて、今回見て廻った場所の見取り図です。(写真②
②高館から柳之御所へ
※歩いたコースは黄色い点線です
出典:柳之御所資料館模型
写真①の高館義経堂の入口を起点に黄色い点線に沿って2㎞程歩くと、柳之御所跡に着きます。

そもそも平泉は、写真③の解説にもありますように、奥六郡(看板地図中、紫に塗られた東北内陸部)の玄関口(中央政権の派出所である仙台 多賀城から見て)に、藤原清衡(きよひら)が造った中核都市なのです。(写真③
③奥六郡(奥州王国)と平泉
出典:柳之御所資料館
私が盛んにblogで「奥州王国」と言っているのは、この奥六郡のことです。

勿論、奥六郡も中央政権下に存在する一地方郡ではありますが、奥州藤原氏は、この郡からの税収だけでなく、奥羽で取れる金や名馬から上がる利潤を上手く活用し、仮想的な蝦夷(えみし)の半独立経済圏、いわばバーチャル王国を作り上げていたのです。

なので、その概念的な意味合いも含めて、私はあえて奥六郡のことを奥州王国と呼んだ訳です。

逆の視方(みかた)をすれば、古(いにしえ)の奈良時代に律令で決めた行政機能は、平安時代の藤原摂関政治の基、荘園制度等の発展により、グダグダに崩れ始め、このような京の都から遠い地方では、バーチャル王国の存続を許してしまうような、複雑な国に日本はなってしまったのです。

このような制度の限界を感じ、奥州王国を日本という国の中の大きな腫瘍のように感じ、これを潰さなければ真の統一社会は出来ないと考えた漢(おとこ)がいました。

源頼朝ですね。

彼は、高館にて義経を討ち、その首を差し出した奥州藤原氏4代目の泰衡(やすひら)を赦すどころか、28万もの大軍を持って、自ら平泉へ攻め入ります。これを奥州合戦と言います。

泰衡は、勝ち目なしと踏んだのか、平泉の柳之御所に自ら火を掛け、灰と化して、平泉を放棄し北方の厨川柵(くりやがわさく)へと逃げて行きます。

頼朝軍は、1189年の8月にその何もかも無くなった平泉に入城します。

多分季節も私が訪問した時期と同じ頃ですから、灰こそありませんが、景色としては写真④のような、だだっ広い政庁跡を見たのかも知れません。(写真④
④何もない(東側から見た)「柳之御所跡」
また歩いている途中、写真⑤のような池等も多く見られましたが、この辺り、池を持つ邸宅や高屋(たかや)と呼ばれる倉庫が立ち並ぶ通りだったようです。(写真⑤
⑤池を持つ邸宅跡
実は何もかも無くなったと思っていた、ここの倉庫に唯一残されていたものがあります。

」です。しかも大量に。

これを見つけた頼朝軍は大変驚きましたが、頼朝は全く動じません。
彼はこれがあるからバーチャル王国である奥州王国は潰すべきと、ずーっと構想していたのですから。

2.泰衡からの書状

さて、平泉に入城した頼朝の宿所に、書状が投げ込まれたと『吾妻鏡』にはあります。泰衡からの書状です。概要は以下の通り。(Wikipediaから)

「義経を討ち取ったのは、罪ではなく勲功ではないでしょうか?そもそも義経を平泉に招き入れ、保護したのは亡父・秀衡であって、私はなんらそれらに関与していません。罪無くして成敗されるのは不本意です。現在累代の在所(柳之御所のことか?)を去り、山中を彷徨い、大変難儀しています。出来れば私も頼朝殿の家来の一人として頂けませんか?せめて遠流として欲しいです。」

理が通った話のように感じます。しかし、頼朝は、100年前の後三年合戦源義家(よしいえ)が慈悲をかけた清衡(きよひら)が、結局は裏切り、奥州王国を打ち立ててしまうことを知っています。そう、奥州藤原氏はやはり根絶やしにしなければならないのです。

また、泰衡は、自分たちに起きている事象を、単なる事象としてしか捉えておらず、その裏にある頼朝の深慮遠謀等、全く想像も出来ない人物であるということをこの書状で赤裸々にしてしまっています。

これでは頼朝は、泰衡は傑出した人物だから、殺すのは勿体無いとは思わないでしょう。
理不尽ですが、現代もこの時代も、その辺りの匙加減は同じですね。結局泰衡は、逃亡中に部下から殺害され、その首を頼朝軍に差し出されてしまいます。

◆ ◇ ◆ ◇

このシリーズの「~東北調査紀行1~」で、金色堂には奥州藤原3代のミイラがあるとお話しました。(ミイラの写真はここをクリック

4代目の泰衡の首もあるのです。しかし公式には3代のみということになっていました。(写真⑥右
⑥奥州藤原氏3代の棺(左)と
「忠衡公」と書かれた首桶(右)
何故でしょうか?

それは泰衡の御首が入れてある棺に書かれている名前です。(写真⑥左

忠衡(ただひら)公」と書かれています。

忠衡とは泰衡の弟で、最後まで亡父・秀衡(ひでひら)の遺言を遵守し、義経を守ろうとした人物です。

長い間、この首桶に書かれた文字を信じ、この首は弟の忠衡のものだと信じられてきました。

いや、信じる以前に忠衡のものか、泰衡のものかの客観的な判断が出来ない程、この首は損傷していたようです。16箇所の切創や刺創、さらには鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡があるという凄惨なものです。(写真⑦

なので、言い伝えのように忠衡としていたのですが、1950年代のX線調査等により、この首の頭蓋骨部分に18㎝以上の釘を貫通させた後が見つかったのです。(写真⑦のA、B,Cは削がれた部分)
⑦泰衡の首
「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」でも書きましたが、頼朝は奥州合戦で、平泉を無血開場した後、北へ逃げた泰衡を追いかけ、現在の盛岡市にある厨川柵まで駒を進めます。

この厨川柵、実に133年前の1056年、前九年の役の帰結として、当時の陸奥国守の源頼義(よりよし)が安倍氏征伐を行い、当主安倍頼時(よりとき)の首を八寸釘で打ち抜いて柱に打ち付けたのです。
この故事に倣い、頼朝は泰衡の首を同じ八寸釘で同様に打ち付けたとの記録が吾妻鏡に残っているのです。

その記録と頭蓋骨の貫通跡が一致します。それ以来、この首はやはり奥州藤原氏4代目泰衡のものと鑑定されたのです。

ではどうして首桶に「忠衡公」と書かれているのでしょうか?

奥州王国が滅びても、中尊寺は残った訳であり、当然その中核である金色堂、さらにはそこに安置してある藤原氏のミイラ等は、鎌倉幕府から注目される訳です。

残された奥州王国の人々は、何とか4代目泰衡の首も、3代目までと同様に残してあげたい。しかし、奥州合戦における頼朝軍の敵のトップたる泰衡を、他の3代と同様に堂々と残すことは、鎌倉幕府が続く限りは出来ないのです。
⑧私のためだけに再度開館してくださった柳之御所資料館

そこで、奥州王国の人々は一計を練り、弟の「忠衡公」の首と称して、泰衡の首を3代と一緒に葬ることで、幕府からの訴追を逃れたという訳です。

◆ ◇ ◆ ◇

以上の話全て、「柳之御所資料館」(写真⑧)で知りました。しかし、この資料館に到着した時には、閉館時間である17時を10分程度過ぎており、館員の方々が車で帰宅されようとしていたところを、無理に頼んで、態々私だけのために、資料館をまた開けて下さるというご負担を強いました。この場を借りて感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。(写真⑧

3.無量光院(むりょうこういん)跡

さて、平泉も駆け足で見て廻り、中尊寺駐車場へ向かう私の視野に美しい池が飛び込んできました。(写真⑨
⑨無量光院跡
ここは、無量光院跡と呼ばれる場所で、3代目藤原秀衡が、宇治の平等院鳳凰堂を模して、建てた寺院の跡です。(写真②で地理的な位置もご参照ください

写真⑨の真ん中にある看板を読むと、なんと平泉市がVR(バーチャル・リアリティ)の取組みをしており、写真⑩のような院の建設当時の想像図が、特設ゴーグルを掛けることで、この場所で見えるとのことでした。(写真⑩

確かに平等院鳳凰堂によく似ていますね。

ちなみに、写真⑩の右側の写真にありますように、私が訪れた8月には、ちょうどこの平泉の金鶏山(きんけいさん)の山頂と本堂等の建造物の中軸線上に夕日が沈むのを見られるのだそうです。(残念ながらこの日は日没頃曇ってしまい見えませんでした。)
⑩無量光院のVR写真

4.おわりに


1代目清衡は中尊寺を、2代目基衡(もとひら)毛越寺(もうつうじ)、3代目秀衡無量光院と、ここ平泉を、奥州王国の京の都とすることに一生懸命だったようですが、多分その蝦夷(えみし)の国家形成が、バーチャル(仮想)なだけに「儚(はかな)い」ものであることを奥州藤原氏3代は予想していたのではないでしょうか?

⑪何も無い(南から見た)柳之御所跡にて
※左手の小山が高館義経堂
と考えたのは平泉は、この奥州王国の入口に位置することは先に述べました。(写真③参照

普通そのような都市であれば、王国への敵来襲に備えて、城砦を築く等、武力による防禦建造物で固めるべきですよね。

ところが、奥州藤原氏3代は、ここに寺院等、スピルチュアルなもののみで固めており、またその建造物には、末法思想が色濃く出ているのです。

私はバーチャル国家とは?という疑問に一つの答えを奥州藤原氏から貰っているように感じました。

皆さまはどう感じられますか?

最後までお読み頂き、ありがとうございました。




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義経と奥州藤原氏の滅亡 小話③ ~江の島訪問記 その2~

源頼朝が奥州藤原氏の調伏を祈願した江の島。(詳細はこちらをクリック

今回の「Tsure-Tsure」は、その訪問記の第2段です。(地図①

是非、この江の島訪問記は、メインblogである「マイナー・史跡巡り」の記事「義経と奥州藤原氏の滅亡② ~江の島~」と併せてお読み頂ければ幸いです。(こちらをクリック
①前回は「10.辺津宮」まで来ました
1.奉安殿

1180年、石橋山合戦で敗れた後、千葉県は房総半島に逃れて来た頼朝が、ぐるっと東京湾を廻って、鎌倉入りした後、一番恐れた敵は平家ではなく、奥州藤原氏であったと拙著blogで描きました。(詳細はこちらをクリック

それは、平家打倒を源範頼(のりより)義経に任せ、自分は鎌倉から動かなかったこと、その後の奥州合戦には頼朝自ら28万の軍を動かして盛岡まで遠征したことからも明白だと思います。

世間では良く、「頼朝は石橋山合戦で敗北する等、義経程の戦上手ではないから、最強敵である平家打倒は義経らに任せた」と言われますが、決して彼自身は、そんな認識は無いと思います。
やはり奥州王国がある限り動けなかったでしょう。その証拠が1182年に、この江の島の弁財天に奥州藤原氏の調伏を祈願したことにも顕れています。

現在、その調伏祈願の弁財天さん、奉安殿という六角堂のようなお堂の中にあります。(写真②
②奉安殿
このお堂の中の撮影は禁止なので、Webから弁財天さんの写真をお借りします。(写真③
③江の島の弁財天像
弁財天の像は2つあるのです。左の白い弁財天は、皆さん一番馴染みがあるものではないでしょうか?結構新しいように見えますが、これでも鎌倉中期の傑作です。

実は江戸時代、江戸から行楽で江の島の弁財天にお参りする方が多かったようですが、それがこの女性らしく、やさしい感じの弁財天の方がお目当てだったようです。

調伏祈願した像は、右側の像です。白い嫋やかな左の弁天様と比較して、黒くて何やら強そうですね。八臂弁財天と言います。(ちなみに左側は二臂弁財天、八臂や二臂は腕の数です。)

「マイナー・史跡巡り」でも書きましたが、腕の数が右側の弁財天様は8つあります。阿修羅は6本の手ですし、水の神だけにタコを意識したのですかね?

8つの手に8つの技を持つのだそうです。
ちなみに「口八丁手八丁」、この八臂弁財天から来ている言葉だそうです。

つまり、頼朝は「口八丁手八丁」で奥州藤原氏を調伏したのです。具体的に彼がどうやって調伏したのかは「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡」をご笑覧ください。

2.奥津宮

そして、この弁財天は中津宮を経て、奥津宮へと続きます。(写真
④中津宮

⑤奥津宮
この奥津宮の鳥居が頼朝が寄進したものとの記載が吾妻鏡にあります。(現在のこの鳥居は2004年に再建されたレプリカですが。)

その時の様子を吾妻鏡で描いている場面では、頼朝のそうそうたる家臣団がこの江の島の調伏祈願に一緒に来ていることに驚きました。

頼朝は本気だったのですね。バーチャル国家である奥州王国の殲滅は。

3.義経の首

さて、頼朝の奥州藤原氏を調伏し、奥州王国を滅ぼすことが成功した1189年。奥州王国が滅びるちょっと前に義経の首は、この江の島の対岸に当たる腰越の浜に打ち捨てられました。

そこから、本当に首が境川を遡ったのかどうか分かりませんが、写真⑥のように現在の藤沢の国道1号沿い辺りの首洗井戸で、洗われたとあります。(写真⑥
⑥義経首洗い井戸

また義経は、この首洗い井戸の近くの白旗神社に祀られました。(写真⑦
⑦義経を祀った白旗神社

これが史実なのですが、問題は江の島海岸から6㎞も境川を、首が遡ることが出来るかということです。この神社のHPにも、首が遡って来たと書かれています。
私も「マイナー・史跡巡り」では、「どんぶらこ、どんぶらこ」と遡ったと書きました。

しかし、幾ら満潮時でもこの急流な境川を6㎞も遡れるとはとうてい考えられません。

どうしてなのでしょうね?また判官贔屓のなせる技なのでしょうか?祀られている白旗神社が旧東海道沿いであることから、後世、江戸時代の江の島観光目当ての人々が、観光名所としてアクセスしやすい場所にするためではないかと勘繰りたくなってしまいます(笑)。

この件は、もうレジェンドの領域を出ることは難しそうです。

そこで、もう一つ私が感心したレジェンド、江の島のトンボロ形成と話を併せたのが、「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」のエンディングに描いた物語なのです。(詳細はこちら

4.江の島のトンボロ形成について

トンボロ(tombolo)とは、イタリア語で、元々海だった場所に波が運ぶ砂が溜まって、陸地になることを言います。フランスのモンサンミッシェルが有名ですね。

江の島もまさにその現象があります。(写真⑧
⑧江の島のトンボロ
干潮時、1時間程度は、このトンボロの上を歩くことが出来ます。私も昔、海水浴にこの海岸に来て居た時、干潮時に昼寝をしていたら、徐々に東西両側から波が押し寄せ、あっという間に水浸しになった経験があります(笑)。

江の島があれば、トンボロが出来たこと自体はなんらレジェンドではありません。出来る仕組みは図⑨のように、波と砂の力学的な仕組みも解明されていて、実験的にトンボロを発生させることも出来るようです。(図⑨
図⑨ トンボロの出来る仕組み
※江の島水族館ご提供資料より抜粋
レジェンドなのは、江の島でこれが出来たのが1216年と記録にあります。何でよりによって鎌倉幕府が出来たばかりの頃なのでしょうか?1189年に義経の首がこの辺りを漂っていてから27年後です。

江の島自体は2~8万年前には出来ていたようですので、1216年という八臂弁財天を勧請し調伏祈願してから34年後、奥州藤原氏滅亡から27年後にこのトンボロが出来、現在まで800年間そのトンボロは存在し続けているのです。

江の島が出来て、数万年スパンの中で、義経の首が江の島前を通過してから数十年後というタイミングで本土と繋がったという事実は、地質学的に偶然の一致という言葉だけで済ますことが出来ないように感じるのは私だけでしょうか?

なので、「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」のエンディングに描いた物語のように、義経を殺し、奥州王国の殲滅に導いた江の島弁財天と義経の首が和解した象徴として、このトンロボが出来たという新しい伝説が出来ても不思議ではないと思いませんか?(詳細はこちら

江の島から白旗神社に来た私と娘はそんな事を話しながら、この白旗神社から帰路についたのでした。(写真⑩
⑩白旗神社の義経公鎮霊碑前にて
最後までお読み頂き、ありがとうございました。

江島神社、義経首洗井戸、白旗神社の地図はこちら↓


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中尊寺金色堂 小話⑥ ~東北調査紀行2~

拙著メインブログの「マイナー・史跡巡り」の進捗に合わせて、色々な紀行文が交じり合うので、混乱される方もいらっしゃるかもしれません。

今回は、中尊寺金色堂から始まった東北調査紀行の第2弾です。
※第1弾は、こちらをクリック下さい。

中尊寺を見た後は、そのまま歩いて、義経の最期の地である「高館(たかだち)」を目指します。(巻末のGoogleマップもご参照ください。)

まず、中尊寺を出て、目に入るのが、弁慶の墓です。(写真①
①中尊寺門前にある弁慶の墓碑と松
立派な松です。これは弁慶がずーっと義経に従い、「立ち往生」で殉死するまで変わらぬ忠義を尽くしたことを讃えるために、後世の中尊寺の僧・素鳥(そちょう)が以下の句を添えて植えたようです。

「色変えぬ松の主(あるじ)や武蔵坊」

弁慶の「立ち往生」については、既に「マイナー・史跡めぐり」にも描きました。
弁慶については、義経の部下で存在したことは史実らしいですが、ただ、彼の数々の奇行(?)は、後に判官贔屓と相まって、創作された話が多いようです。

私の家の直ぐ近くにも「弁慶鍋転がしの坂」等というのがあります。あまりの急な坂に落馬しそうになった弁慶、なんとか持ち直しましたが、鞍の後ろに釣るしてあった鍋の紐が切れ、鍋は断崖を落ち、谷底に消えて行ったという伝承です。

写真のように確かに急な坂ですが、史実としては、少々怪しいですよね(笑)。(写真②
②弁慶鍋転がしの坂
※遠方に見えるのは丹沢山系と富士山等
現代だったら、鍋を落しても住宅街の誰かが拾ってくれそうですけど(笑)。

富士山に丹沢は大山、箱根の二子山、遠方には天城山も見えるこの景観の良さから、何か地名をということで義経伝説にあやかり、付けたのでしょう。勿論、奥州と鎌倉の行き来にこの土地付近を通った事に関しては、かなり確度が高いようです。旧鎌倉街道が走っていますので。

ただ、そのような伝説が多い中でも、弁慶の最期・「立ち往生」だけは真実だと思いたいです。(絵③
③満福寺(腰越)の襖絵「弁慶の立ち往生」

さて、この弁慶のお墓から2km程度離れたところに、義経最期の地・高館はあります。

そこを目指して、トコトコ歩いていると、道端に写真④のような石碑を見つけました。(写真④
④卯の花 清水の碑
ここには、奥の細道で松尾芭蕉に同行した曽良(そら)の句がありました。

「卯の花に兼房みゆる白毛かな」

義経の部下と、藤原泰衡の軍勢がここで激しく交戦しました。
この句は、その中の1人、白髪を振り乱し勇猛果敢に戦った66歳の兼房(かねふさ)について詠んだものです。兼房は、義経らの最期を見届けた後、敵の大将と組討ち、火の中に消えて行ったと伝えられています。
⑤卯の花

卯の花は写真⑤のように、真っ白で、これがここに咲いていたのでしょうね。それを見た曽良は、兼房の白髪を思いだしたのでしょう。(写真⑤

「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」にも書きましたように、義経自身は、奥州藤原氏である泰衡への遠慮から、泰衡軍に対して、無抵抗のまま自刃しました。しかし、彼の部下たちは、主人である義経の不憫を想い、若干31歳だった義経に対し、66歳の白髪のご老人である兼房でさえ、見事な献身による最期を遂げています。

一部にはこれらは判官贔屓が生み出した伝説という見方もありますが、このような献身が出来る人物・義経を見出した兼房は、ある意味大変幸せな最期だったのかも知れないなと思いながら先を急ぎます。

◇ ◆ ◇ ◆

そこから、約10分くらいのところに、義経の高館はありました。(写真⑥
⑥高館の義経堂(左)と義経供養塔(右)
義経、最期はこんなに小さな持仏堂で奥さんと4歳の幼女を手に掛け、自刃をしたのですね。お堂の近くには義経の供養塔もありました。(写真左)

このお堂は、石段を登り切ったところに、ちょっと写っている写真が観光用に多用されているのを良く見かけます。(「マイナー・史跡巡り」の写真【ここをクリック】もそれです)

つまり、かなり高いところにあるため、北上川流域が綺麗に見える場所なのです。(写真⑦
⑦高館から北上川流域を臨む
この景色は、奥州王国と源家との争乱とは非常に対照的に、静かで美しく、目まぐるしく変わる人の業が馬鹿馬鹿しくさえ感じられるのは私だけでしょうか?

やはり私だけでは無いのですね。芭蕉のあの有名な句が、高館のこの景色が見える場所に建っています。(写真⑧

「夏草や、兵(つわもの)どもが夢の跡」

⑧芭蕉の名句の碑
この句は、何も義経の最期に対してのみを想定して、作られたものではないでしょう。ただ、具体的なイメージ無しではこのような名句は生み出せません。やはり句を生み出す景色が必要で、それはこの北上川流域の景色なのかなと思います。

更に、この高館を北上川方面に下ったところにある奥州藤原三代の御所があった「柳之御所」跡も、ここもまさに芭蕉の句を彷彿させる景色が広がっています。

柳之御所については、次回また訪問紀行文で取り上げますが、このように平泉には、芭蕉のこの名句を彷彿させる場所が数多くあることも、平泉が世界遺産へと登録された1つの要因ではないかと思いました。

最後に、この看板が気になったので掲載します。(写真⑨
⑨高館が義経北海道逃亡伝説の起点と明記のある看板
藤原泰衡が、この高館を襲った時に自刃したとされる義経は、実は影武者だったとあります。本物の義経は、弁慶らと一緒に、襲われる1年前に北を目指して旅に出たと言う伝説。この看板は、ここ高館が義経北行伝説の起点であるという訳です。

この後、東北地方の北から北海道に至るまで、各地に点々と残る弁慶と義経の伝説の数々や、最後義経はチンギス・ハーンとなり、中国大陸で「モンゴル帝国」を打ち建てた等、壮大な伝説まで残っています。

確かに、1年前にそっと脱出出来る可能性は大いにあるでしょうし、各地の伝説もそれを上塗りするだけの根拠になり得るでしょう。またモンゴル帝国の成立も1206年と、1189年にここ高館から義経が脱出してから17年後と時間的な整合性はあります。

ただ、私の家の周りにも数々ある義経・弁慶伝説や、それこそ腰越状、藤沢の白旗神社、須磨寺の「弁慶の鐘」に至るまで、全てに判官贔屓の介入が感じられることも確かです。

いずれにせよ、芭蕉の句は高舘を「夢の終焉の地」としています。それに対し、この「義経北行伝説」は同地を「夢のはじまりの地」としている訳です。

皆さんでしたら、どっちを選びますか?

勿論、写真⑦のような北上川は全てを知っていると思いますので、是非平泉は高館に行かれ、感じ取って頂ければと存じます。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

上記、平泉3か所を以下の地図の青いポイントで提示します。



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