プリプリが命を救う

今日の午後、会社で「安全」に関するイベント(大会?講習会?)がありました。

この手の講習会は皆さんも受けられる時感じられると思いますが、非常に大事な話ではありますが、何分(なにぶん)お話が堅く、途中で飽きが来やすいのも事実です。

そんな堅いイベントの終盤、女性保健師たち3人が、それまでの厳格な雰囲気から、いきなり「プリプリが命を救う」と題して、話を始めました。

大体、堅い話を吹き飛ばそうとする軽い話は、うちの会社にありがち(?)な、ちょっと恥ずかしくてそっぽを向きたくなる、言い換えると「オヤジギャグ」的な事をするのかと、斜めに構えて聞き始めたのですが、聞くにつれ、これはなかなか!(笑)という思いに変わったのです。

内容は心肺蘇生の手順についての話でした。

心肺停止した人が出た時に、余程訓練された人でない限り、頭が真っ白になり、どう対応して良いか分からなくなりやすいのだそうです。

確かに私も救命講習を横浜市で受け、修了証書を貰いましたが、講習の内容は殆ど忘れてしまっています。

そこで、このような人向けに、大学の医学関係者が、プリンセスプリンセスの「Diamond」を替え歌にして憶えて貰うことにより、人が倒れた現場で頭が真っ白になっても手順を思いだせるように工夫したのが、下の動画です。

この動画自体は、字幕で歌詞が流れるだけですが、この歌詞に合わせて保健師さんたちが3人で、人が急に倒れるところから、心臓マッサージ、AEDの操作等を寸劇でやってくれるのです。これに結構感動し、涙腺が緩んでしまいました(笑)。
その会場には4,50代の社員が数百人くらい居ましたが、やはり皆私と同じような一種の感動を持ったのでしょうか。保健師さんたちが、「次は、皆さんが歌いましょう!」と掛け声をかけると、数百人のおっさんたちが、素直に大きな声と手拍子で歌い始めたのです。

なんか、ちょこっと感動的な光景でした(笑)。

いつもは会社の恐ろしいおっさん連中も、実は人に優しい奴らなんだなと共感できる瞬間。

是非、皆さんも、このDiamondの歌詞を見て頂きたいと思います。
同じやさしい日本人の仲間の一員として。

お読みいただき、ありがとうございました。

義経と奥州藤原氏の滅亡 小話② ~江の島訪問記 その1~

今回は、「マイナー・史跡巡り:義経と奥州藤原氏の滅亡② ~江の島~」の舞台となった江の島の訪問メモについて、ゆるく描きたいと思います。

「江の島の弁財天で頼朝が奥州藤原氏の調伏(呪いをかけること)を祈願した」という話を聞き、直ぐ「よし、江の島の弁財天を見なければ!」と張り切って出かけることにしました。

免許取り立ての娘に運転練習と称し、無理やり同行させ家を出発し、途中怖い場面もありましたが、約1時間後に無事到着することができました。

行きの途中なのですが、江の島に注ぐ柏尾川(かしおがわ)沿い、東海道線の大船駅の近くに「長尾台」という土地があります。(写真①
①長尾台 ※柏尾川が写真左側を流れている
ちなみに、この土地の名前、長尾というのは、あの長尾景虎、つまり後に改名して上杉謙信となった長尾氏開祖の土地なのです。

以前、このBlogでも取り上げました「御霊神社」がここにもあり、長尾氏の先祖はこのBlogでも書いた鎌倉権五郎景正に通じているようです。(Blogはこちらをクリック

鎌倉時代に一度長尾氏は滅びているのですが、上杉家の家老格として長尾家は室町時代に復活、その末裔である長尾景虎が越後の地で返り咲いて上杉謙信になり、幕末まで米沢にて家が続くのですから、何気ない住宅街であるこの場所も、感慨深い土地なのですね。

長尾景虎もそうですが、鎌倉景正の「景」という文字が通字(とおりじ)として長尾家には引き継がれているようです。

さらに余談ですが、この近くの「大船」という地名も、この写真左側を流れる柏尾川の氾濫原で、当時は比較的大きな船がこの辺りまで入り込めたことに由来するようです。(地図②
②大船や長尾台は地図右上の
「柏尾川」と書かれている辺り
まさに鎌倉景正の頃、この氾濫原である低湿地帯を田園化することに成功し、始祖として長尾氏を設定したようです。

写真③は今年の台風の時期のこの辺りを撮った写真をWebからお借りしましたが、柏尾川もこんなに川幅が拡がるのですね。今のように治水が発達していない昔なら簡単に氾濫したのでしょう。(写真③
③氾濫しそうな柏尾川
かく言う私も、この川の上流にある柏尾小学校に通った低学年の頃、柏尾川の氾濫を経験しています(笑)。

◆ ◇ ◆ ◇

脱線しまくりました。先を急ぎましょう。

この柏尾川に沿って海まで下り、川と波が作ったトンボロの上の橋を渡ると江の島に到着です。(写真④
④江の島へのトンボロとその上の橋
※江の島側から写しています
そして、島の玄関「青銅の鳥居」をくぐると、島の仲見世に出ます。(写真⑤
ここは私が物心ついた頃から変わっていませんね(笑)。(一番下のマップも参照
⑤江の島「青銅の鳥居」
ここでハマグリのラーメンなるものを食べました。塩ラーメンにハマグリって結構合うのですね。磯の味がして大変美味しかったです。(写真⑥
⑥ハマグリラーメン
食べた後、店を出て気が付いたのですが、この仲見世のあちこちに、写真のような北条氏の家紋ミツウロコらしき文様があります。(写真⑦
以前「マイナー・史跡巡り」でも、北条一族の「ミツウロコ」については、北条氏康の馬標ここをクリック)として紹介しました。(「三増峠の戦い③ ~信玄の山岳戦~」もご笑覧ください。ここをクリック
⑦仲見世のあちこちにミツウロコが・・・
そんなこんなしていると、「朱の鳥居」のところに来ました。(写真⑧マップ
⑧朱の鳥居
ちなみに、この「江島神社」の文字、東郷平八郎の揮毫だそうです。何故東郷元帥が揮毫したのでしょうか?やはり海軍だけに江島神社は水神だからですかね?

この鳥居の奥に見える建物が瑞心門(すいしんもん)をくぐり、階段を上り、上から再びこの門を見ました。(写真⑨マップ
⑨瑞心門
竜宮城の形なのだそうです。

さて、この階段を上り着ると、江の島の中核である辺津宮に到着します。(写真⑩マップ
⑩辺津宮
ここにも、写真⑩の水色の矢印の先に、北条氏のミツウロコがあります。

一体、どうして江の島にはミツウロコが多いのでしょうか?
それはこういう理由からだそうです。

1190年、平家を倒し、これから幕府を開く時に、頼朝の後見人であった北条時政が、江の島の岩屋に参詣しました。
海の平家と言われた平家を倒せたのは、一重に水神である弁財天のお蔭と感謝の意を顕すと同時に、この後の北条家の繁栄を祈願していると、例の弁財天が現れ、時政の願いを聞き入れたと伝えたそうなのです。(絵⑪
⑪北条時政の前に現れた弁財天
左:歌川国貞 右:月岡芳年
⑫江島神社社紋
これが北条家紋の原型
そう伝えると、弁財天は大蛇となり、海に還ったのですが、後に3枚の鱗(ウロコ)が残されたので、北条時政はこれを家紋にしたとの話です。

これが後々北条家の紋として有名となるミツウロコの発祥伝説です。鎌倉時代の執権北条氏もそうですが、戦国時代の幕開け期の北条早雲から始まる、後北条五代でもこのミツウロコが使われ続け、関東のあちこちの寺院等で多く見られるこの家紋は、江の島が発祥だったのです。(図⑫

長くなりましたので、弁天堂や頼朝の建てた鳥居、トンボロ等については、シリーズの次回にお話したいと思います。

お読み頂きありがとうございました。

←大船の北側・長尾台の地図
順に「2.青銅の鳥居」⇒「4.朱の鳥居」⇒
「5.瑞心門」⇒「10.辺津宮」まで来ました。

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義経と奥州藤原氏の滅亡 小話① ~満福寺~

今回は、拙著blog「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡① ~腰越状~」に描いた「腰越状」の舞台となった満福寺訪問について書きたいと思います。(写真①
①腰越海岸から5分のところにある満福寺
※門前を江ノ電が走る
さて、先のマイナー・史跡巡り腰越状(こしごえじょう)のあらまわしは書きましたが、一応概要をもう一度お話します。

源義経が、兄・頼朝が何故平家を滅ぼす程の大成果を上げた自分を理解してくれないのだろう?きっと誤解があるからに違いないと考え、平家の総大将・平宗盛(むねもり)を京から護送しがてら、1185年5月、自ら弁慶と一緒に京から鎌倉へ頼朝に会いに向かいます。

ところが、鎌倉の直前、腰越という海岸で、鎌倉入府にストップが掛かります。(地図は巻末参照)

仕方なく、義経ら一行はこの海岸脇にある満福寺という寺に暫く留まり、頼朝からの鎌倉入府許可を待ちます。(写真②
②左:腰越海岸通りから満福寺へのアプローチ
右:江ノ電の線路から山門へ登る階段
ところがいつまで経っても入府許可が出ません。
そこで、義経はこの場所で、頼朝に手紙を書くのです。腰越状と言います。

写真②の急こう配な山門への階段を上り切ると、しかめっ面した義経と弁慶が、何やら書いているらしい石像に、不謹慎ですが思わず吹き出してしまいました。(写真③
③山門をくぐるとすぐ目に入る義経と弁慶の石像
いや、大変失礼しました。まあ、二人でその手紙である腰越状を作っているのは分かりますが、大体何で義経は鎧兜を着ているのですかね??

分かりやすいと言えば分かりやすいですが・・・。

他にも同じ境内に弁慶絡みの2つの大きな石もありますが、何となく、これも義経・弁慶に親しみやすい印象を持たせることを主眼に置いたものなのでしょう(笑)。(写真④
④弁慶は大きな石好き?
さて、腰越状ですが、お寺の中にあります。入場料を払って中に入りますが、なんともアットホームな造りの中に、その手紙はあります。(写真⑤
⑤腰越状
手紙の内容については、「マイナー・史跡巡り」の当該記事をご参照下さい。(ここをクリック

また、このお寺の中の襖等には、鎌倉彫等で作成された吉野の別れからの義経と静御前についての立派な襖絵が描かれていました。(写真⑥
⑥左上:吉野の山中で懇願する静御前に戻るよう厳しく言う義経
右上:一人寂しく戻る静御前 左下:変装して平泉を目指す義経と弁慶
右下:平泉の高館で炎に包まれ自害する義経とそれを守る弁慶の立ち往生姿
これ以外にも、子供の頃に聞かされた義経の話に沿った襖絵が沢山ありました。

以下2枚の襖絵に代表されるように、静御前も義経も、それぞれの職業服(?)を着ていても寂しそうな雰囲気が、この襖絵シリーズ全体を支配している雰囲気です。(写真⑦
⑦左:鶴岡八幡宮で今様を舞う静御前
右:たそがれる戦人(いくさびと)義経
やはり、この腰越より東側の鎌倉に入り、兄・頼朝との面会が果たせなかった義経は、どんなに強い武将でも、うら寂しい感情を多分に持ったでしょう。

また反対に、吉野の山から一人寂しく別れた静御前は、鎌倉の鶴岡八幡宮の絵⑧の舞台で、頼朝や政子の前で、今様(いまよう)を舞わされることとなり、写真⑥の吉野の山での別れを物悲しく舞うのです。(絵⑧
⑧静御前が今様を舞った舞台(鶴岡八幡宮)
これも、子供の頃、涙した有名場面ですね。

さて、このように義経が落ちぶれていくターニングポイントとなった満福寺ならではの演出を堪能した後は、この腰越海岸から江の島の名産である「しらす丼」を食べられるのもこのお寺の楽しみの1つです。(写真⑨
⑨しらす丼
なかなかシンプルで、さっぱりした味でしたが、カルシウム等の栄養が満点で健康的ですよね。

このしらす丼を食べられるお寺のお店がある当たりは、非常に眺望が良く、腰越海岸を経て、江の島が遠望出来ます。(写真⑩
⑩満福寺から見える腰越海岸(手前の丸い湾)
と江の島(左の棟が見える島)
この満福寺で腰越状を書き残して、京へ戻って行った義経たちの運命は、襖絵の通りとなって行った訳ですが、この時義経は、4年後の1189年、御首(みしるし)となって、この写真⑩の海岸に来ることになろうとは想像もしていなかったでしょうね。

また、実は3年前の1182年に、この写真⑩の江の島、たった2キロ弱の距離しかないこの島で、挙兵まだ2年の頼朝が何をしたのかを知っていたのであれば、義経の運命も大きく変わっていたかも知れません。(写真⑪
⑪現在「江の島」調査中(笑)
次回の「マイナー・史跡巡り」の記事、「義経と奥州藤原氏の滅亡」シリーズ②では、この江の島で頼朝が何をしたのかから紐解いていきたいと思いますので、お楽しみに!

完読頂き、ありがとうございました。




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中尊寺金色堂 小話⑤ ~東北調査紀行1~

8月6日から3日間の東北調査紀行で、7回に渡る「マイナー・史跡巡り」での前九年の役・後三年合戦を約3か月間続けました。(読み返される方はこちらをクリック

執筆中は、沢山の叱咤激励のお言葉を頂き、ありがとうございました。

ただ、まだ紀行中の1.5日分しかblogに反映できていません。
義経の衣川での滅びと、1戦国武将の話を貯めてあります(笑)。

あまり下調べもしないで家を一人で飛び出し、勉強しながら次の調査地を探す3日間でしたが、不思議と帰る頃には、各所各所の話が頭の中で整理され、それまで「点」でしか無かった史跡毎の歴史が一つに流れ、「線」のように繋がったのです。この経験は新鮮でした。

しかし、「マイナー・史跡巡り」を作り始めると、どうしても史実順にしか、訪問先を掲載できないため、紀行中、順に私が考えたことが抜け落ちがちなのです。

そこで、一度この紀行について時間を追って掲載したいと考え、Tsure-Tsureに連載したいと思います。

1.中尊寺【2017年8月6日(日曜日):第1日目)】

さて、初日は東北自動車道路をかっとばして、北上川が綺麗に見える中尊寺を、この日の昼過ぎから訪問しました。(写真①
①東北自動車道を中尊寺へ
写真の高速道路の上雲が多いのは、2日後の8月8日に東北地方を直撃する台風第5号の前兆だったようです。この時はそんな事は考えもしませんでした(笑)。

世界遺産である中尊寺の訪問は初めてで、勿論奥州藤原氏が造った寺であることや、黄金をふんだんに使っているため、マルコ・ポーロの東方見聞録で「ジパングは黄金の建物がある」と取り上げられたことくらいは知っていましたが、それ以上の知識は全く持って居ませんでした。(写真②

前九年・後三年と縁が深いなんて、行く前には全然・・・(笑)
②中尊寺へ到着、金色堂前で自撮り(笑)

金色堂内での写真撮影は禁止のため、Web上の写真を掲載しますが、流石「金」を贅沢に使っているため、本当に眩(まばゆ)いですし、壮麗な印象を受けます。(写真③
③中尊寺金色堂内部
Webから抜粋
2.奥州藤原氏3代のミイラ

この金色堂の須弥壇(しゃみだん)に、建立した清衡(きよひら)を始め、2代・基衡(もとひら)、3代・秀衡(ひでひら)らが眠っています。

ちょっとグロいですが、この3代の遺体(ミイラ)について徹底した調査が、1950年に金色堂が修復されるのに併せ実施されました。その時の写真が以下の通り残っています。(写真④

当時の調査の状況等に興味がある方は、こちらの記事も併せてご参照ください。
④金色堂に眠る奥州藤原氏3代のミイラ
※Webから抜粋
しかし、「マイナー・史跡巡り」で描いた清衡の姿が、このような形で残っているというのは何か感慨深いものを感じます。

3人の遺体の中で、私には清衡が一番遠慮深く見えます。単に一番奥だからかもしれませんが(笑)。

この謙虚な感じが、清原家を殲滅しようとした源義家(よしいえ)を上手く切り抜け、奥州藤原氏の繁栄の基(もとい)を作った清衡ならではの雰囲気なのかもしれません。

死して1000年近く経った遺体からも、生前の性格まで見えると思うのは、私の考えすぎでしょうか(笑)。

ちなみに4代目の藤原忠衡(藤原泰衡(やすひら))が首だけなのは、以下の理由からです。

彼は平泉に逃げ込んだ義経を滅ぼし、その首を源頼朝に差し出すことで恭順の意を顕(あらわ)しました。しかし、この義経討伐の努力も虚しく、最初から奥州藤原氏を滅ぼしたいと考えていた頼朝は、泰衡を討伐、八寸釘(約24cm)を使って釘打ちの刑に処した上でさらし首にします。その釘打ちの刑の痕跡も生々しくこの泰衡のミイラに残っていたそうです。

3.螺鈿(らでん)に込められた想い

私は、この金色堂内の見学中、金をふんだんに使った須弥壇も勿論気になりましたが、他に気になったのが、写真③の中央弱冠右側に見える螺鈿(らでん)細工を大量に施した柱です。(写真⑤
⑤左:金色堂の柱(螺鈿を沢山使った装飾)
右:螺鈿を作るための夜光貝     
※3日目訪問の多賀城の歴史博物館で撮影
螺鈿は、平安時代の蒔絵(まきえ)等に良く使われる貝殻(夜光貝)を薄く切り貼り付けて作ります。加工に大変手間暇が掛かるため、片輪車螺鈿蒔絵手箱等、小物に使われることが多く、螺旋の放つ七色の真珠光沢の美しさが尊ばれるのです。(写真⑥
⑥片輪車螺鈿蒔絵手箱
※東京国立博物館蔵
ただ、金色堂のような大きな建造物に対して、これ程までにこの貝のかけらを使うことはないようです。このように美しい小細工を手間暇かけて大規模に施したことで、金色堂は金によるものに加え、高い芸術性をまとい、世界遺産に登録されたのです。

しかし、どうしてこの螺鈿を大量に使おうと清衡は考えたのでしょうか?

4.中尊寺供養願文

金色堂は中尊寺の一番奥にあります。これを見た後、私は元来た道を歩いていると、中尊寺の鐘楼がひっそりと、高台に建っているのに気が付きました。(写真⑦
⑦中尊寺の鐘楼

この鐘楼、中にある梵鐘を突き過ぎて、撞座(つきざ)部分の摩耗が激しく、今は突けないのだそうです。(写真⑧
⑧今は突けない中尊寺の梵鐘
※Webから
またそれは、清衡がこの中尊寺を建立した供養願文と関係が深いようです。(写真⑨
⑨清衡が書いた中尊寺供養願文
※Webから
1124年、中尊寺金色堂が竣工した際、清衡は何を考えていたのでしょうか?
手がかりは2年後に金色堂が落慶した時に、清衡が奉納した中尊寺供養願文にありました。この願文を意訳します。

【中尊寺供養願文(意訳)】
このみちのくの国では官軍と蝦夷(えみし)の戦いが何年も続きました。
そして、それらに関する人、動物などの多くの命が広大な土地のうちに失われてきたのです。
朽ちた骨は、今なお、みちのくの塵芥(ちりあくた)となっているのです。
この鐘の音が、このみちのくの大地に鳴り響き、大地に散った骨片になったものたちの魂を慰め、天国へと導きたいと願うものです。
◆ ◇ ◆ ◇

この願文から、この鐘は、清衡の希望通り、平和希求の音を突けなくなるくらい、沢山響かせ続けたということでしょうか。

5.おわりに

私は、この願文を見た時に咄嗟に思いついたことがあります。
金色堂にあるあのおびただしい螺鈿は、この願文の中にある「朽ちた骨」「骨片」を象徴しているのではないでしょうか?七色に光る真珠光沢の美しい骨片たちが金色堂の中で皆一緒になって、この極楽浄土を形成しているのです。

幼少より、前九年、後三年と戦ばかり経験してきた清衡だからこそ、このみちのくで沢山の無念や憎しみ、そして無残にも朽ち果てていく兵(つわもの)の姿を見て来たことが、強い無常観の累積となって、晩年この寺を建てずにはいられなかったのではないかと思います。

この紀行中も、清衡が自分で仕掛けて置きながら、事が成った後にかなり葛藤をしたと思われる史跡に幾つか行き当たりました。
奥州王国を作り上げるまでの清衡は、やはり必然性があったとは言え、憎愛の中を生き抜くのに懸命で、気が付けば自分の通ってきた後には死屍累々。
彼は自分だけが安らかに死んでいくのには、罪の意識からやはり耐えられなかったのだと思います。

父・藤原経清(つねきよ)への慕いの情、それを鋸引きで殺した清原家への憎しみ、その憎しみが生み出してしまった母親の焼死。そして母が同じである家衡(いえひら)の斬首。(人物相関図はこちら

これら全てに加え、またその昔の阿弖流為(アテルイ)の乱でも同じような蝦夷の反乱があったことを想い、それらの戦いで骨となった者を思いやる清衡の気持ちが、晩年にこの中尊寺を建立させる原動力となったのです。

なので、政治的駆け引きに使った「金」もふんだんにつかい、骨片を表す螺鈿にも、その膨大な作業に対する支出も惜しみなく、全力を出し切り、現代では世界遺産となるこの平泉金色堂を、彼の最後の最期に建てることで、人生の幕を降ろせると考えたのです。

清衡は金色堂落慶の翌年、このみちのくの土地の朽ち果てた骨たちと一緒に、この鐘の音を聞きながら没しました。(写真⑩) 享年73歳です。
⑩このみちのくの朽ちた骨に響き渡る中尊寺の鐘の音は、清衡の奏でる鎮魂歌なのですね
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次回以降も、引き続きこの紀行文の続きをお楽しみいただければ幸いです。




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中尊寺金色堂 小話④ ~御霊神社~

さて拙著「マイナー・史跡巡り」の後三年合戦で描きました鎌倉権五郎景正について、今回は取り上げさせてください。(写真①)
①鎌倉正景とゆかりの深い御霊神社
(鎌倉権五郎神社)
この鎌倉景正、後三年合戦中、若干16歳でありながら、義家軍の主力として、勇猛果敢な戦闘をし、自身が右目に矢を受けても馬上から矢を連射し戦い続けるという鬼神の働きを成しました。(写真②)
②左:矢が目に刺さっても戦い続ける景正
 右:戦後三浦氏に矢を抜いてもらう景正

これに関係するのか、秋田県横手市のHPによりますと、金沢柵の近くを流れる厨川(くりやがわ)で景正が潰れた右目を洗ったことから、この川では現在でも片目のカジカが棲息するそうです。(写真③)

また彼は、ただ勇猛な猪突猛進型の武者だった訳では無く、金沢柵が落ち、この戦が終った後に、敵・家衡軍の屍を手厚く葬り、塚を築きました。(写真④)

④景正が金沢柵で死んだ兵士たちを祀った塚

金沢柵内の一番良い見晴らしの場所にその塚はあります。(写真⑤)

⑤この塚(金沢柵内)から沼柵方面を臨む

その上に、彼は杉の木を一本植えました。それが約900年もの間成長し続け、後世の人々に、この戦の物語を思い起こさせ続けたのです。(写真③参照

弱冠10代なのに、中々良く出来た武人なのですね。感心します。

この杉は、昭和23年の火災により、株だけを残して焼失してしまったようです。杉の株にも焼け跡が生々しく残っていました。(写真⑥)
⑥火災で焼け焦げた跡も生々しい塚の杉の木

残念ですね。話が脱線しますが、こういった平安末期頃に植えられた巨木は、丁度寿命時期なのか分かりませんが、近代に入って消失しているものが多いように感じます。たとえば記憶に新しいのは、鶴岡八幡宮の大銀杏の木、このblogでも取り上げた石橋山合戦で頼朝が隠れた土肥の大椙(おおすぎ)(ブログはここをクリック)等が思いつきます。(写真⑦)
⑦上段:鶴岡八幡宮の大イチョウ
(平成22年倒れる)
下段:石橋山合戦で敗れた頼朝が隠れていた
土肥の大杉(大正6年倒れる)
※何れも左が在りし日、右が現状

話戻りますが、株つながりの話で、鎌倉景正のお話を続けますと、鎌倉の御霊神社には「景正公 弓立の松」という株があります。(写真⑧)
⑧鎌倉にある「弓立の松」

彼は姓が鎌倉というだけあって、頼朝が鎌倉に幕府を開く100年程前に鎌倉に住んでおり、由比ガ浜の辺りに屋敷があったと言われています。
この松があるのは、現在の鎌倉は由比ガ浜からちょっと北側、御霊神社の境内にあります。(御霊神社は写真①もご参照ください)

鎌倉景正が自分の領地内を見て廻る時に、弓を立てかけた松の株跡とのことです。

でも弓を立てかけた松の株なんて、ここ1ヵ所ではなくて、方々にあったと思うのですが、多分、ここが他の箇所にもあった「弓立の松」らを代表し、記念に残っている箇所なのではないでしょうか?

ということは何か所も弓を立てかける場所があった位、彼の領地は広かったのではないかと思い、調べてみました。

実はこの御霊神社、私の実家の廻り(横浜市南部)にも4か所は確認できます。(地図⑨)
⑨鎌倉景正と関係の深い御霊神社の位置
※オレンジのマーカは御霊神社分祀の五霊神社

なんと、私が訪ねた鎌倉の箇所の御霊神社こそ鎌倉市(一番下のマーカです)ですが、他の4か所は横浜市(北から泉区、戸塚区2ヵ所、栄区)となっています。

なんで鎌倉市を外れてこんなに北に長いのでしょうか?

思いついたのが、今の行政区割に成る前の明治時代期の旧鎌倉郡です。旧鎌倉郡の地図を地図⑨に示します。
⑨旧行政区分の鎌倉郡
※Kameno's Digital Photo Logから引用
上記、御霊神社が、この旧鎌倉郡のほぼ中央を北上しているということが分かります。

つまり、この旧鎌倉郡の行政区分は、鎌倉景正が領地を基に、後世作られたと想像されます。中央に精神的支柱の御霊神社を配置することで、領民の統一を図ったのでしょう。

流石にこれだけ広ければ、颯爽とこの土地を馬で走り回らせ、松に得意の弓を立てかけて領内視察をする鎌倉正景の姿が想像できます。

彼が平安時代に開拓し、治めたからこそ、後に旧鎌倉郡という行政区分が出来たのですね。

以前、鎌倉ハムの起源について、「マイナー・史跡巡り」で紹介しましたが、その時も横浜市戸塚区柏尾町が鎌倉ハムの発祥地なのに、何故「横浜ハム」と言わず「鎌倉ハム」と言うのか?という疑問がありました。(ここをクリック

答えは、発祥当時は旧鎌倉郡だったためというものでしたが、ということは元は、鎌倉景正の開拓・統治のお蔭でついた名前と言えるのではないでしょうか。

◆ ◇ ◆ ◇

もう1000年近く前の一武将である鎌倉景正、色々な伝説や、行政、製品、歌舞伎等、我々の生活に関係する沢山のものに影響を与えていますね。

鎌倉にある御霊神社も、長谷寺や鎌倉大仏の近くにあり、「鎌倉七福神めぐり」の最終地であることから、沢山の人が訪れます。
また江ノ電が神社の目の前を通り過ぎることから、江ノ電マニアも沢山写真を撮りに来ていました。(写真⑨)
⑩鎌倉七福神めぐりの最終地である御霊神社の前を走る江ノ電

鎌倉景正についてこのblogで少しでも多く知って頂き、この御霊神社や、ご近所の御霊神社・五霊神社を訪問する際に、彼の影響を少しでも感じて頂く一助になれば嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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中尊寺金色堂 小話③ ~納豆~

後三年合戦の「その3」楽しんで頂けましたでしょうか?

「沼柵」での戦いは、清衡家衡(きよひら・いえひら)の勝利。秋田県特有の豪雪が強力な味方だったようです。
源義家(みなもとのよしいえ)は、この戦ほど惨めに負けたことは無かったようで、めちゃくちゃ悔しがったようです。

さて、その沼柵での敗戦における有名なエピソードに、この戦が納豆発祥の元となったというものがあります。(写真①)
①金沢公園にある「納豆発祥の地」の碑

この戦中、どのような経緯で納豆が発見されたのか?次のようになっています。

「マイナー・史跡巡り」でも描きましたように、「沼柵」を攻めあぐねた義家・清衡軍は、冬将軍が来るまで、この場所に停滞することになります。2m以上の豪雪と家衡らのゲリラ戦法により、義家らの本拠多賀城からの補給路は絶たれ、病人続出、戦闘続行は不可能な状況になりつつあります。(写真②)

②沼柵辺りの降雪
(横手公園スキー場から沼柵方面を臨む)

この時、この食料不足をなんとかしなければならないと考えた義家の部下らは、近くの農民から食料の供出を頼みます。

しかし、ちょうどこの沼柵攻略時の出羽(秋田県)は凶作で、供出できるものと言ったら、大豆くらいしかありませんでした。

そこで、義家軍の兵士たちは、農民にその大豆で大量の煮豆を作らせます。

ところが、この供出作業中、また家衡らのゲリラ戦による食料補給妨害が始まってしまうのです。

時間がないので、焦った義家軍は、農民の作った煮豆を藁(わら)で作った俵に入れて、陣に戻ります。義家の軍は、源氏らしく馬が中心だったと「マイナー・史跡巡り」に書きましたが、この時もその俵を馬の背に負わせて、戦で盗られては叶わないと、全力で走り戻ったのでした。(絵③)
③馬の背に煮豆の俵を付けて陣中へ納める

さて、このように集めた大量の煮豆を陣中に納めるのですが、2,3日経つとなんと、この煮豆が匂いを放ち、糸を引くようにになっていました。

どうやら、逃げ帰る時に馬が汗をかいたせいで、煮豆を包んだ藁内の菌が増殖し、発酵したのでしょう。

「しょ、食料が皆腐っている!!」

義家軍はショックです。ただでさえ、補給が上手くいかないのに、現地調達した食料まで腐ってしまうとは、なんとお粗末な兵站計画。もうこの煮豆が食べられないのであれば、撤退しかありません。

でも腐っているなら仕方がありません。さっさと捨てましょうとばかりに俵を持ち上げたある兵士、俵から漏れてくる匂いを嗅ぐと、その悪臭で気分が悪くなるかと思いきや、なにやらこの匂いは、空きっ腹に美味いモノを期待させる良い香りなのです。

そこで、この兵士、恐る恐る中の煮豆を取り出して見ます。
やはり藁に糸を引く煮豆。これは完全に腐っているのでは??(写真④)
③藁に糸をひく煮豆
しかし、この良い香りは??

ええい、ままよ!とばかりに兵士が食べてみると、これが大変美味しく、腹も下さない。却って煮豆よりも複雑な美味であると、義家陣中でかなり評価の高い食料となりました。

供出した農民もこれに気付き、食用としたというものです。

ちなみに、義家の陣中に供出した、つまり「納(おさ)めた豆」ということで「納豆」という名前になったのだそうです。

◆ ◇ ◆ ◇

あれ?この話、30年以上前に民放TVの「まんが日本昔ばなし」で見た納豆発祥の話と少々違うなあと思って、当時のビデオを探しましたところありました。

以下の動画です。お時間のある方は是非ご覧ください。10分程度です。(お話「納豆」は動画開始10分40秒のところからです。その前は別の話ですのでご留意ください。)


もう一度見直しましたが、やはりこの中に出てくる戦は、後三年合戦のようでもありますね。

ただ、馬の背で汗をかいたから発酵して納豆になったという説ではなく、要領の悪いでくの坊が陣まで運搬したことと、夏場の暑さによるものという話になっており、この辺りが私の違和感となっていたようです。

どちらが正しいということは今となっては分かりませんが、煮豆が藁の中の納豆菌によって、単なる「腐敗(ふはい)」ではなくて、それと紙一重の「発酵(はっこう)」となった偶然や、兵士らが食料不足で追い詰められ、死ぬ気(?)で食べてみたことが、その後の私たちに至るまで納豆を美味しく頂けることの事始めとなったのは史実のようですね(笑)。

他にも納豆の発祥には諸説あります。一番有力なのが、弥生時代にぬくぬくと暖かい居住スペースで、敷いた藁に煮た大豆が落ちて、炉によって温まり、自然に発酵して納豆になったという説です。

また、聖徳太子が愛馬に与えていた煮豆の余ったものを「もったいない」と藁の間に隠しておいたら、発酵して美味しくなったので人々に伝えたというもの。

更には中国に同じような食品「鼓(シ)」という麴納豆があり、これが伝来したのだろうというもの、よく考えると京都の大徳寺納豆などは、まさにここから来たのかも知れません。

関西の納豆は上の聖徳太子の例も合わせ、今全国的に流通している写真④のようなタイプの納豆とは起源が違うかもしれませんね。(写真④)
④現在一般に流通している納豆
写真④を見て思ったのですが、納豆に「和からし」って付き物ですよね。20年くらい前はこの「和からし」付いていない納豆も結構あったのですが、今では当たり前のように付いています。

なので、この「和からし」を付けるのは、現代に入ってからの話で、カレーライスの「福神漬け」のようなものかくらいに考えていたのですが、実は江戸時代からの風習のようです。

納豆と言えば、その独特のネバネバ感もさることながら、独特の匂いがありますね。

先程の後三年合戦中では、その匂いを「良い匂い」と書きましたが、納豆が嫌いな方にはその匂いが苦手な方が多いのも事実です。

アンモニア臭が入っているからです。

ちなみにアンモニア臭は、炊いたばかりのご飯のお窯を開けた瞬間に立ち上る湯気にも沢山含まれており、私なぞはあの立ち上る湯気の匂いが大好きですが、これと同じということですね。

で、江戸時代には冷凍・包装技術が未達でしたので、夏は納豆のアンモニア臭が更にきつく、これを抑える必要があったのです。
そのためにカラシを入れたのが元々のはじまりです。

現代は技術の発達により、匂いは大分抑えられていますが、辛味が納豆の味を引き立てるということで、昔の習慣さながら「和からし」が同封されているということなのです。

◇ ◆ ◇ ◆

さて、長くなりましたが、もう少しお付き合いください。

この納豆発祥の石碑、なぜか金沢柵のある金沢公園内にあります。なぜ先に述べた発祥の戦場、沼柵ではないのか?

実は今更で恐縮ですが、この発祥伝説も、沼柵の戦説(いくさせつ)と、金沢柵の戦説があるのです。金沢柵の場合、煮豆を調達したのは、ここで日本史史上初めての兵糧攻めにあった家衡側が、近隣の農民からやっとの思いで、煮豆を調達できたのが、柵内で発酵し、兵糧が無く餓死寸前の家衡軍兵士が、ままよ!と食べたら美味しかったというもの、このような説もあるのです。

私は金沢柵の戦説の方が説得力があるなあと感じています。

ちなみに、金沢柵にある発祥記念碑にある「由来」には、どちらの説にもとれる形の記載となっています。(写真⑤)
⑤納豆発祥の碑に書かれた「由来」

では何故、最初に述べた沼柵の戦説、つまり「義家軍が納豆を齎(もたら)した」説の方が有力とされているのでしょうか?

それは、義家がこの後三年合戦後に、京都まで凱旋して帰る街道沿い(福島、茨城は水戸等)に納豆の産地が広がっている事だからとの解説がありました。

ただ、私が思うには、後世に源氏の天下となった時、義家は神格化されますから、納豆みたいに日本人のポピュラー商品の生みの親は、この軍神と言った方が通りが良いからというのが一番の理由のような気がしますが、如何でしょうか?

さて、お腹が空きました。朝飯は納豆しようと思います(笑)。

また最後までご精読いただき、ありがとうございました >^_^<。



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