義経と奥州藤原氏の滅亡 小話① ~満福寺~

今回は、拙著blog「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡① ~腰越状~」に描いた「腰越状」の舞台となった満福寺訪問について書きたいと思います。(写真①
①腰越海岸から5分のところにある満福寺
※門前を江ノ電が走る
さて、先のマイナー・史跡巡り腰越状(こしごえじょう)のあらまわしは書きましたが、一応概要をもう一度お話します。

源義経が、兄・頼朝が何故平家を滅ぼす程の大成果を上げた自分を理解してくれないのだろう?きっと誤解があるからに違いないと考え、平家の総大将・平宗盛(むねもり)を京から護送しがてら、1185年5月、自ら弁慶と一緒に京から鎌倉へ頼朝に会いに向かいます。

ところが、鎌倉の直前、腰越という海岸で、鎌倉入府にストップが掛かります。(地図は巻末参照)

仕方なく、義経ら一行はこの海岸脇にある満福寺という寺に暫く留まり、頼朝からの鎌倉入府許可を待ちます。(写真②
②左:腰越海岸通りから満福寺へのアプローチ
右:江ノ電の線路から山門へ登る階段
ところがいつまで経っても入府許可が出ません。
そこで、義経はこの場所で、頼朝に手紙を書くのです。腰越状と言います。

写真②の急こう配な山門への階段を上り切ると、しかめっ面した義経と弁慶が、何やら書いているらしい石像に、不謹慎ですが思わず吹き出してしまいました。(写真③
③山門をくぐるとすぐ目に入る義経と弁慶の石像
いや、大変失礼しました。まあ、二人でその手紙である腰越状を作っているのは分かりますが、大体何で義経は鎧兜を着ているのですかね??

分かりやすいと言えば分かりやすいですが・・・。

他にも同じ境内に弁慶絡みの2つの大きな石もありますが、何となく、これも義経・弁慶に親しみやすい印象を持たせることを主眼に置いたものなのでしょう(笑)。(写真④
④弁慶は大きな石好き?
さて、腰越状ですが、お寺の中にあります。入場料を払って中に入りますが、なんともアットホームな造りの中に、その手紙はあります。(写真⑤
⑤腰越状
手紙の内容については、「マイナー・史跡巡り」の当該記事をご参照下さい。(ここをクリック

また、このお寺の中の襖等には、鎌倉彫等で作成された吉野の別れからの義経と静御前についての立派な襖絵が描かれていました。(写真⑥
⑥左上:吉野の山中で懇願する静御前に戻るよう厳しく言う義経
右上:一人寂しく戻る静御前 左下:変装して平泉を目指す義経と弁慶
右下:平泉の高館で炎に包まれ自害する義経とそれを守る弁慶の立ち往生姿
これ以外にも、子供の頃に聞かされた義経の話に沿った襖絵が沢山ありました。

以下2枚の襖絵に代表されるように、静御前も義経も、それぞれの職業服(?)を着ていても寂しそうな雰囲気が、この襖絵シリーズ全体を支配している雰囲気です。(写真⑦
⑦左:鶴岡八幡宮で今様を舞う静御前
右:たそがれる戦人(いくさびと)義経
やはり、この腰越より東側の鎌倉に入り、兄・頼朝との面会が果たせなかった義経は、どんなに強い武将でも、うら寂しい感情を多分に持ったでしょう。

また反対に、吉野の山から一人寂しく別れた静御前は、鎌倉の鶴岡八幡宮の絵⑧の舞台で、頼朝や政子の前で、今様(いまよう)を舞わされることとなり、写真⑥の吉野の山での別れを物悲しく舞うのです。(絵⑧
⑧静御前が今様を舞った舞台(鶴岡八幡宮)
これも、子供の頃、涙した有名場面ですね。

さて、このように義経が落ちぶれていくターニングポイントとなった満福寺ならではの演出を堪能した後は、この腰越海岸から江の島の名産である「しらす丼」を食べられるのもこのお寺の楽しみの1つです。(写真⑨
⑨しらす丼
なかなかシンプルで、さっぱりした味でしたが、カルシウム等の栄養が満点で健康的ですよね。

このしらす丼を食べられるお寺のお店がある当たりは、非常に眺望が良く、腰越海岸を経て、江の島が遠望出来ます。(写真⑩
⑩満福寺から見える腰越海岸(手前の丸い湾)
と江の島(左の棟が見える島)
この満福寺で腰越状を書き残して、京へ戻って行った義経たちの運命は、襖絵の通りとなって行った訳ですが、この時義経は、4年後の1189年、御首(みしるし)となって、この写真⑩の海岸に来ることになろうとは想像もしていなかったでしょうね。

また、実は3年前の1182年に、この写真⑩の江の島、たった2キロ弱の距離しかないこの島で、挙兵まだ2年の頼朝が何をしたのかを知っていたのであれば、義経の運命も大きく変わっていたかも知れません。(写真⑪
⑪現在「江の島」調査中(笑)
次回の「マイナー・史跡巡り」の記事、「義経と奥州藤原氏の滅亡」シリーズ②では、この江の島で頼朝が何をしたのかから紐解いていきたいと思いますので、お楽しみに!

完読頂き、ありがとうございました。