中尊寺金色堂 小話④ ~御霊神社~

さて拙著「マイナー・史跡巡り」の後三年合戦で描きました鎌倉権五郎景正について、今回は取り上げさせてください。(写真①)
①鎌倉正景とゆかりの深い御霊神社
(鎌倉権五郎神社)
この鎌倉景正、後三年合戦中、若干16歳でありながら、義家軍の主力として、勇猛果敢な戦闘をし、自身が右目に矢を受けても馬上から矢を連射し戦い続けるという鬼神の働きを成しました。(写真②)
②左:矢が目に刺さっても戦い続ける景正
 右:戦後三浦氏に矢を抜いてもらう景正

これに関係するのか、秋田県横手市のHPによりますと、金沢柵の近くを流れる厨川(くりやがわ)で景正が潰れた右目を洗ったことから、この川では現在でも片目のカジカが棲息するそうです。(写真③)

また彼は、ただ勇猛な猪突猛進型の武者だった訳では無く、金沢柵が落ち、この戦が終った後に、敵・家衡軍の屍を手厚く葬り、塚を築きました。(写真④)

④景正が金沢柵で死んだ兵士たちを祀った塚

金沢柵内の一番良い見晴らしの場所にその塚はあります。(写真⑤)

⑤この塚(金沢柵内)から沼柵方面を臨む

その上に、彼は杉の木を一本植えました。それが約900年もの間成長し続け、後世の人々に、この戦の物語を思い起こさせ続けたのです。(写真③参照

弱冠10代なのに、中々良く出来た武人なのですね。感心します。

この杉は、昭和23年の火災により、株だけを残して焼失してしまったようです。杉の株にも焼け跡が生々しく残っていました。(写真⑥)
⑥火災で焼け焦げた跡も生々しい塚の杉の木

残念ですね。話が脱線しますが、こういった平安末期頃に植えられた巨木は、丁度寿命時期なのか分かりませんが、近代に入って消失しているものが多いように感じます。たとえば記憶に新しいのは、鶴岡八幡宮の大銀杏の木、このblogでも取り上げた石橋山合戦で頼朝が隠れた土肥の大椙(おおすぎ)(ブログはここをクリック)等が思いつきます。(写真⑦)
⑦上段:鶴岡八幡宮の大イチョウ
(平成22年倒れる)
下段:石橋山合戦で敗れた頼朝が隠れていた
土肥の大杉(大正6年倒れる)
※何れも左が在りし日、右が現状

話戻りますが、株つながりの話で、鎌倉景正のお話を続けますと、鎌倉の御霊神社には「景正公 弓立の松」という株があります。(写真⑧)
⑧鎌倉にある「弓立の松」

彼は姓が鎌倉というだけあって、頼朝が鎌倉に幕府を開く100年程前に鎌倉に住んでおり、由比ガ浜の辺りに屋敷があったと言われています。
この松があるのは、現在の鎌倉は由比ガ浜からちょっと北側、御霊神社の境内にあります。(御霊神社は写真①もご参照ください)

鎌倉景正が自分の領地内を見て廻る時に、弓を立てかけた松の株跡とのことです。

でも弓を立てかけた松の株なんて、ここ1ヵ所ではなくて、方々にあったと思うのですが、多分、ここが他の箇所にもあった「弓立の松」らを代表し、記念に残っている箇所なのではないでしょうか?

ということは何か所も弓を立てかける場所があった位、彼の領地は広かったのではないかと思い、調べてみました。

実はこの御霊神社、私の実家の廻り(横浜市南部)にも4か所は確認できます。(地図⑨)
⑨鎌倉景正と関係の深い御霊神社の位置
※オレンジのマーカは御霊神社分祀の五霊神社

なんと、私が訪ねた鎌倉の箇所の御霊神社こそ鎌倉市(一番下のマーカです)ですが、他の4か所は横浜市(北から泉区、戸塚区2ヵ所、栄区)となっています。

なんで鎌倉市を外れてこんなに北に長いのでしょうか?

思いついたのが、今の行政区割に成る前の明治時代期の旧鎌倉郡です。旧鎌倉郡の地図を地図⑨に示します。
⑨旧行政区分の鎌倉郡
※Kameno's Digital Photo Logから引用
上記、御霊神社が、この旧鎌倉郡のほぼ中央を北上しているということが分かります。

つまり、この旧鎌倉郡の行政区分は、鎌倉景正が領地を基に、後世作られたと想像されます。中央に精神的支柱の御霊神社を配置することで、領民の統一を図ったのでしょう。

流石にこれだけ広ければ、颯爽とこの土地を馬で走り回らせ、松に得意の弓を立てかけて領内視察をする鎌倉正景の姿が想像できます。

彼が平安時代に開拓し、治めたからこそ、後に旧鎌倉郡という行政区分が出来たのですね。

以前、鎌倉ハムの起源について、「マイナー・史跡巡り」で紹介しましたが、その時も横浜市戸塚区柏尾町が鎌倉ハムの発祥地なのに、何故「横浜ハム」と言わず「鎌倉ハム」と言うのか?という疑問がありました。(ここをクリック

答えは、発祥当時は旧鎌倉郡だったためというものでしたが、ということは元は、鎌倉景正の開拓・統治のお蔭でついた名前と言えるのではないでしょうか。

◆ ◇ ◆ ◇

もう1000年近く前の一武将である鎌倉景正、色々な伝説や、行政、製品、歌舞伎等、我々の生活に関係する沢山のものに影響を与えていますね。

鎌倉にある御霊神社も、長谷寺や鎌倉大仏の近くにあり、「鎌倉七福神めぐり」の最終地であることから、沢山の人が訪れます。
また江ノ電が神社の目の前を通り過ぎることから、江ノ電マニアも沢山写真を撮りに来ていました。(写真⑨)
⑩鎌倉七福神めぐりの最終地である御霊神社の前を走る江ノ電

鎌倉景正についてこのblogで少しでも多く知って頂き、この御霊神社や、ご近所の御霊神社・五霊神社を訪問する際に、彼の影響を少しでも感じて頂く一助になれば嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


中尊寺金色堂 小話③ ~納豆~

後三年合戦の「その3」楽しんで頂けましたでしょうか?

「沼柵」での戦いは、清衡家衡(きよひら・いえひら)の勝利。秋田県特有の豪雪が強力な味方だったようです。
源義家(みなもとのよしいえ)は、この戦ほど惨めに負けたことは無かったようで、めちゃくちゃ悔しがったようです。

さて、その沼柵での敗戦における有名なエピソードに、この戦が納豆発祥の元となったというものがあります。(写真①
①金沢公園にある「納豆発祥の地」の碑

この戦中、どのような経緯で納豆が発見されたのか?次のようになっています。

「マイナー・史跡巡り」でも描きましたように、「沼柵」を攻めあぐねた義家・清衡軍は、冬将軍が来るまで、この場所に停滞することになります。2m以上の豪雪と家衡らのゲリラ戦法により、義家らの本拠多賀城からの補給路は絶たれ、病人続出、戦闘続行は不可能な状況になりつつあります。(写真②
②沼柵辺りの降雪
(横手公園スキー場から沼柵方面を臨む)

この時、この食料不足をなんとかしなければならないと考えた義家の部下らは、近くの農民から食料の供出を頼みます。

しかし、ちょうどこの沼柵攻略時の出羽(秋田県)は凶作で、供出できるものと言ったら、大豆くらいしかありませんでした。

そこで、義家軍の兵士たちは、農民にその大豆で大量の煮豆を作らせます。

ところが、この供出作業中、また家衡らのゲリラ戦による食料補給妨害が始まってしまうのです。

時間がないので、焦った義家軍は、農民の作った煮豆を藁(わら)で作った俵に入れて、陣に戻ります。義家の軍は、源氏らしく馬が中心だったと「マイナー・史跡巡り」に書きましたが、この時もその俵を馬の背に負わせて、戦で盗られては叶わないと、全力で走り戻ったのでした。(絵③
③馬の背に煮豆の俵を付けて陣中へ納める
さて、このように集めた大量の煮豆を陣中に納めるのですが、2,3日経つとなんと、この煮豆が匂いを放ち、糸を引くようにになっていました。

どうやら、逃げ帰る時に馬が汗をかいたせいで、煮豆を包んだ藁内の菌が増殖し、発酵したのでしょう。

「しょ、食料が皆腐っている!!」

義家軍はショックです。ただでさえ、補給が上手くいかないのに、現地調達した食料まで腐ってしまうとは、なんとお粗末な兵站計画。もうこの煮豆が食べられないのであれば、撤退しかありません。

でも腐っているなら仕方がありません。さっさと捨てましょうとばかりに俵を持ち上げたある兵士、俵から漏れてくる匂いを嗅ぐと、その悪臭で気分が悪くなるかと思いきや、なにやらこの匂いは、空きっ腹に美味いモノを期待させる良い香りなのです。

そこで、この兵士、恐る恐る中の煮豆を取り出して見ます。
やはり藁に糸を引く煮豆。これは完全に腐っているのでは??(写真④
④藁に糸をひく煮豆
しかし、この良い香りは??

ええい、ままよ!とばかりに兵士が食べてみると、これが大変美味しく、腹も下さない。却って煮豆よりも複雑な美味であると、義家陣中でかなり評価の高い食料となりました。

供出した農民もこれに気付き、食用としたというものです。

ちなみに、義家の陣中に供出した、つまり「納(おさ)めた豆」ということで「納豆」という名前になったのだそうです。

◆ ◇ ◆ ◇

あれ?この話、30年以上前に民放TVの「まんが日本昔ばなし」で見た納豆発祥の話と少々違うなあと思って、当時のビデオを探しましたところありました。

以下の動画です。お時間のある方は是非ご覧ください。10分程度です。(お話「納豆」は動画開始10分40秒のところからです。その前は別の話ですのでご留意ください。)


もう一度見直しましたが、やはりこの中に出てくる戦は、後三年合戦のようでもありますね。

ただ、馬の背で汗をかいたから発酵して納豆になったという説ではなく、要領の悪いでくの坊が陣まで運搬したことと、夏場の暑さによるものという話になっており、この辺りが私の違和感となっていたようです。

どちらが正しいということは今となっては分かりませんが、煮豆が藁の中の納豆菌によって、単なる「腐敗(ふはい)」ではなくて、それと紙一重の「発酵(はっこう)」となった偶然や、兵士らが食料不足で追い詰められ、死ぬ気(?)で食べてみたことが、その後の私たちに至るまで納豆を美味しく頂けることの事始めとなったのは史実のようですね(笑)。

他にも納豆の発祥には諸説あります。一番有力なのが、弥生時代にぬくぬくと暖かい居住スペースで、敷いた藁に煮た大豆が落ちて、炉によって温まり、自然に発酵して納豆になったという説です。

また、聖徳太子が愛馬に与えていた煮豆の余ったものを「もったいない」と藁の間に隠しておいたら、発酵して美味しくなったので人々に伝えたというもの。

更には中国に同じような食品「鼓(シ)」という麴納豆があり、これが伝来したのだろうというもの、よく考えると京都の大徳寺納豆などは、まさにここから来たのかも知れません。

関西の納豆は上の聖徳太子の例も合わせ、今全国的に流通している写真④のようなタイプの納豆とは起源が違うかもしれませんね。(写真⑤
⑤現在一般に流通している納豆
写真④を見て思ったのですが、納豆に「和からし」って付き物ですよね。20年くらい前はこの「和からし」付いていない納豆も結構あったのですが、今では当たり前のように付いています。

なので、この「和からし」を付けるのは、現代に入ってからの話で、カレーライスの「福神漬け」のようなものかくらいに考えていたのですが、実は江戸時代からの風習のようです。

納豆と言えば、その独特のネバネバ感もさることながら、独特の匂いがありますね。

先程の後三年合戦中では、その匂いを「良い匂い」と書きましたが、納豆が嫌いな方にはその匂いが苦手な方が多いのも事実です。

アンモニア臭が入っているからです。

ちなみにアンモニア臭は、炊いたばかりのご飯のお窯を開けた瞬間に立ち上る湯気にも沢山含まれており、私なぞはあの立ち上る湯気の匂いが大好きですが、これと同じということですね。

で、江戸時代には冷凍・包装技術が未達でしたので、夏は納豆のアンモニア臭が更にきつく、これを抑える必要があったのです。
そのためにカラシを入れたのが元々のはじまりです。

現代は技術の発達により、匂いは大分抑えられていますが、辛味が納豆の味を引き立てるということで、昔の習慣さながら「和からし」が同封されているということなのです。

◇ ◆ ◇ ◆

さて、長くなりましたが、もう少しお付き合いください。

この納豆発祥の石碑、なぜか金沢柵のある金沢公園内にあります。なぜ先に述べた発祥の戦場、沼柵ではないのか?

実は今更で恐縮ですが、この発祥伝説も、沼柵の戦説(いくさせつ)と、金沢柵の戦説があるのです。金沢柵の場合、煮豆を調達したのは、ここで日本史史上初めての兵糧攻めにあった家衡側が、近隣の農民からやっとの思いで、煮豆を調達できたのが、柵内で発酵し、兵糧が無く餓死寸前の家衡軍兵士が、ままよ!と食べたら美味しかったというもの、このような説もあるのです。

私は金沢柵の戦説の方が説得力があるなあと感じています。

ちなみに、金沢柵にある発祥記念碑にある「由来」には、どちらの説にもとれる形の記載となっています。(写真⑥
⑥納豆発祥の碑に書かれた「由来」
では何故、最初に述べた沼柵の戦説、つまり「義家軍が納豆を齎(もたら)した」説の方が有力とされているのでしょうか?

それは、義家がこの後三年合戦後に、京都まで凱旋して帰る街道沿い(福島、茨城は水戸等)に納豆の産地が広がっている事だからとの解説がありました。

ただ、私が思うには、後世に源氏の天下となった時、義家は神格化されますから、納豆みたいに日本人のポピュラー商品の生みの親は、この軍神と言った方が通りが良いからというのが一番の理由のような気がしますが、如何でしょうか?

さて、お腹が空きました。朝飯は納豆しようと思います(笑)。

また最後までご精読いただき、ありがとうございました >^_^<。