中尊寺金色堂 小話② ~かわらけ~

今回、後三年合戦を調査するにあたり、一番の激戦地となった横手市は金沢柵に建っている後三年合戦金沢資料館の学芸員の方に、色々とご指導を頂きました。(写真①)

①金沢柵址近辺にある「後三年合戦金沢資料館」

この学芸員の方、ご丁寧に後三年合戦の史料をコピーして下さる等、本当に良くして下さったので、何か恩返しをしたいと思いましたが、こちらは何もお返しできるようなものは持って居ません。

ふと、資料館受付の横にある土産もの(と言っても3点しかありませんでしたが)に目を止めると、珍しいものが目に留まりました。

「後三年かわらけ」と書かれた綺麗な箱です。箱の表に描かれているのは後三年合戦絵巻。まだ「マイナー・史跡巡り」には描いていませんが、義家が、潜んでいる家衡のゲリラ部隊を雁の飛び方で発見し、掃討する場面が描かれています。(写真②)
②後三年かわらけ

「かわらけ」と言えば、なにやら土器のようなものくらいの知識しかありませんでしたが、兎に角、学芸員殿への御恩返しとばかりに購入することにしました。600円だから全然御恩返しにはなっていないと思いますが・・・(笑)。

さて、家に持ち帰り開けてみますと、変哲の無い「かわらけ」1皿と資料館からの解説書が1枚。(写真③)

③中には「かわらけ」1皿と解説書

解説書によると、「かわらけ」は平安時代から近年まで、主に宴会用の使い捨て容器として利用されてきました。

見た通り素焼きで、釉(うわぐすり)を塗っていません。(写真④)
④「かわらけ」は素焼きの土器

これは、使い捨ての器であることから、釉塗布のコスト等を掛けずに、安く作成できること、捨てた後、土に還りやすい等、環境にも優しいという利点があります。
⑤「かわらけ」は現代の紙皿?

つまり、現代の紙皿とほぼ同じ位置づけなのですね。(勿論、紙皿は土に還りやすいのでなく燃やしますが)

では、何故この平安の紙皿である「かわらけ」が後三年合戦のお土産として売られる程、重要なのかと言うと、この後三年合戦のメイン舞台となる秋田県横手市にある清原一族の拠点から、大量にこの「かわらけ」が出土しているのです。
しょっちゅう宴会が開かれており、それが清原氏の勢力の大きさを表しているということです。

なので「かわらけ」は、単なる平安時代の紙皿というだけのモノではなく、出土する量に等よって、その一族の勢力を計る一つのバロメータなのです。

ちなみに、この「かわらけ」は、素焼きであるがため、お酒を飲む前に水に浸けて水分を含ませないと、お酒が器に染み込んで勿体無いことになるだけでなく、吸水力が強いので、口をつけると器に唇が貼り付いて痛い思いをすることになります。

なので、宴会で利用される前には良く洗い、水分を吸収させてから使います。

◆ ◇ ◆ ◇

逆に、この特性を上手く利用して、燈明皿に使われたようです。(写真⑥)

菜種(なたね)他、この頃明かりとして利用した油に水分が多いと、灯火の燃えが良くありません。

「かわらけ」のように吸水性が高い器であれば、この油中に含まれる水分を吸水するため、安定した明かりとなりやすいという原理です。

⑥かわらけを使った燈明皿

当時は宴会に必要な明かりも、現代の煌々とした照明とは違ってかなりの量必要になりますから、この「かわらけ燈明皿」による臨時照明は、コスト的にもかなり役に立ったと思われます。

◆ ◇ ◆ ◇

お土産で買った「かわらけ」1つでも、この当時の夜の生活が伝わってくるなあと一人満足している私です(笑)。

この「かわらけ燈明皿」による灯火の下で、兵(つわもの)共が、酒を「かわらけ」で酌み交わし、悲喜交々(ひきこもごも)陸奥国守である義家への愚痴でも話したのですかね。

そんな場面の絵巻が無いかとWebを探しましたが、残念ながらありませんでした。
代わりに、この絵が出てきました。前九年の役の直前、清原氏と源義家らが滅ぼした安倍一族と宴で「かわらけ」を使い、酒を飲む源頼義(よりよし)らを描いたものです。(絵⑦)

⑦安倍一族との宴で「かわらけ」を使う源頼義(右上)
この絵の真ん中が、頼義の息子・義家ですが、見て下さい。鳥肉にむしゃぶりつく様子を。この時まだ彼は18歳ですが、こんなひょうきんな顔をしながらも、この後安倍氏に黄海川の戦いで大敗した時の活路を開く大活躍をするのです。

21年後、清原一族が義家を歓待した「三日厨」(みっかくりや)の宴(話をお忘れの方はこちらをクリック)も、上の絵巻と同じ様な感じだったのでしょうね。義家は39歳ですから、もっと貫禄がついたでしょうけど(笑)。

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この「かわらけ」を横に置き、このような一場面を想像しながら、「マイナー・史跡巡り」の筆を進めることにします。

また最後までご精読いただき、ありがとうございました。



映画「ダンケルク」

映画「ダンケルク」を見てきました。(写真①)

あまり前評判も知識も無いまま、NHKジャーナルのPodCastを聞いた時に、そこそこの評価がされていたのでチョイスしたのですが、これが想像以上に面白かったです。

①映画「ダンケルク」

「陸・海・空」の3つの恐怖というかハラハラドキドキが楽しめる、とは云うものの、戦争アクションにありがちなドンパチドンパチという訳では無く、かと言って、もう一方でよくある悲惨な感じもない、つまり説教臭くないのです。

また、そこで起きている事象については、陸海空それぞれの視点で描かれているので、時間的に遡ったり、先に進んでいたり、映画の途中で、「あ、さっきの映像は、この話の今上映しているこの場面を空から見たものだったのだな。」等の話の戻りが何もナレーションも無く進みます。これも話にメリハリを付けているので、最初から最後まで話に飽きが来ないようになっています。

そして、この手の戦争映画は長いことが多いのですが、1時間45分と比較的短いです。

是非、お薦めします。

ただ、私は、見た後に知ったのですが、ダンケルクについて、以下の基礎知識がある方が映画の背景が分かり、理解が進みやすかったなあと反省しています(笑)。

これから見に行かれる方で、「ダンケルクって何だ?」と思われる方は、是非ご一読下さい。

◆ ◇ ◆ ◇

第2次世界大戦初期の1939年の西部戦線、ドイツ軍は戦車、航空機等の新しい兵器等を最大限活用した戦法、電撃戦を編み出し、英仏軍をヨーロッパ大陸から駆逐し始めます。(写真②)
②ナチス・ドイツの電撃戦(装甲車)

初期のドイツ軍は凄いですからね。何が凄いかと言うと技術力です。

フォルクスワーゲンを開発した技術、アウトバーンのような高速道路も大戦前に作っていますし、航空機、戦車、Uボート、大概の近代兵器は非常にレベルの高いものを作り出しました。(写真③)
③大戦前のアウトバーンを疾走するフォルクスワーゲン

戦争初期は、それらの技術を駆使した兵器を総動員して、ヨーロッパ大陸内の英仏軍に宛てたのですから、それは英仏軍はどんどん追いやられる訳です。

1940年には、ベルギー・フランス国境を突破し、英仏軍をフランスの国境の街、ダンケルクに追い込みます。(地図④)
④ダンケルクの位置
 フランスの最北端

ダンケルクはフランスの最北端の街であることから、ドーバー海峡を渡れば仏兵士たちはイギリスへ逃げることが出来ます。

ただ、ここに40万人もの兵士が追い込まれたのです。40万人一気にドーバー海峡を渡ることは不可能です。(写真③)
③ダンケルクでドーバー海峡を渡る船を待つ英仏軍
(映画より)

当時の英国首相チャーチル(写真④)は、35万の英仏軍を救出するようイギリス国内へ呼びかけます。

④ウィンストン・チャーチル英国首相(当時)
民間の漁船やヨット、はしけを含む、あらゆる船舶を総動員した撤退作戦(作戦名:ダイナモ作戦)が発動されました。

この時、ドイツ軍は来るべき英仏軍の反撃に備え、それまで電撃戦で酷使していた装甲車らの出動を控えてしまうのです。そして主に空軍によるドーバー海峡輸送船の撃沈に頼り、このダイナモ作戦に対抗しようとします。(写真⑤)
⑤ドイツ軍はドーバ海峡を渡る英仏軍に対し空軍を投入

しかし、英仏軍が集まっていた海岸への爆撃は、砂浜の砂がクッションとなり破壊力を減衰させたことや、イギリス空軍の活躍などで、ダンケルクに集結していた英仏軍の殆どが、ドーバー海峡を渡ることが出来たのです。

結局、ドイツ軍に捕虜とされた3万人、死者1万人の計4万人を除いた36万人が、1940年5月10日 から6月4日の間に、イギリスに生還することが出来ました。

この戦いの後、ドイツ軍のヨーロッパ大陸内における勢いは止まらず、ご存知の通りフランスはあっという間に崩壊、国としてほぼ瀕死状態のところへ、イタリアが宣戦布告
ムッソリーニはかなり卑怯と後で揶揄されますが、6月13日にパリはドイツ軍により陥落し、同月21日にはフランスはドイツに降伏するのです。(写真⑥)
⑥パリ陥落(占領するドイツ軍)

しかし、西部戦線の長期的な観点で見ると、チャーチルのこのダンケルクにおける措置が、後の戦線における人的資源の確保という観点で素晴らしく効果があったのです。英仏軍ら連合軍が盛り返す原動力の一因は、このダンケルクでの36万人の兵士救出作戦にあったと言われています。

◆ ◇ ◆ ◇

ざっと、こんなところです。
映画自体は、このような歴史的背景がネタバレに繋がるような話ではなく、あくまでその戦場で走り回る兵士や民間の人々らを描写しておりますので、ご安心ください。

色々な立場の人が出てきます。それらの方々の素晴らしさについて、ここで語りたいのですが、それは流石にネタバレになってしまいますので、是非、私のFacebook等で語りあえればうれしいです。特にこの人、私が一番気になった方です(笑)。(写真⑦)
⑦映画中一番気になった方です

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


中尊寺金色堂 小話① ~じゃじゃ麺~

私のマイナー史跡巡りという行動は、現地に向かう前の事前調査も少なく、計画性も無く、行った先の史跡で「あ、そうなんだ!じゃあ、これはどこで起きたのかな?」と呟きながら、リアルタイムでググります。

すると、その史実に関しての知識と同時に、関連史跡も分かるので、次にその中で興味のある史跡へ移動します。

そこでまた「あ、そうなんだ!じゃあ、・・・」の連鎖により、段々分かってくるという感じです。

本当に最近はIT化で便利な世の中になりました。かなりマイナーな史跡でも、Google検索と、GoogleMapさえあれば、最短で到着できます。

スマホさえあれば、効率よく情報を探し、行動できる時代。最近は写真のように、車据え付けのカーナビよりも、GoogleMapのカーナビの方ばかり使います(笑)(写真①)
①車載のカーナビよりスマホのGoogleMapを使う

中学生の頃は、図書館で国土地理院の地図を開き、一生懸命その史跡を調べ、現地でも詳細の場所はどこか分からず、半日歩き廻り史跡を探すのが当たり前でした。

その頃に比べると隔世の感があります。

しかし、効率が良くなった分だけ、弾丸のような史跡訪問行程となり、今度は移動時間・食事時間が勿体なく感じてきました。
そこで日本全国何処に行っても、トイレ、公衆無線LANによる情報収集、美味しいコーヒー、朝飯・昼飯の利用、全てコンビニばかりとなってきております。

こればかりだとさすがに哀しく感じることもあります(笑)。

そこで、今回盛岡に行ったこともあり、せめてもの贅沢(大笑)として、盛岡名物じゃじゃ麺を食べました。(写真②)
②本場盛岡市で食べたじゃじゃ麵

◆ ◇ ◆ ◇
※以降の写真も全て食す前の写真ですので、ご安心して閲覧ください(笑)。

じゃじゃ麺、東京でもたまに社食等で昼に食べたりします。
汁気の無い麺は焼きそばでもなんでもそうですが、鉄板上でジャージャー音がしますから、この麺もその音で東北の人がこの名前を付けたのだろうくらいに思っていました。

Wikiで調べると、元々は中国の家庭料理の1つなのですね。じゃじゃも中国語で「炸醤麺(ジャージアンミエン)」から来ているとのこと。

③コンビニでゲットしたじゃじゃ麺
ただ、コンビニ等でも売っているじゃじゃ麺は、本場とは違って、砂糖などを用いたた甘みが強く、さらに唐辛子や豆板醤などで辛めの味付けがされているのだそうです。

また麺もラーメンなどと同じものが使われていることが多いのだそうで、それで私が「焼きそば等と同じ無水の麺」と感じたのだと思います。(写真③)

で、結局岩手県は盛岡市のじゃじゃ麺が、中国の家庭料理の伝統を一番継承しているとのこと。

私が食べたお店は、「不来方(こずかた)」というお店で、盛岡市内では3番目に古い、じゃじゃ麺の老舗ということで宿泊したホテルから紹介されました。(写真④)
④盛岡市の老舗「不来方」(こずかた)

夏休みとは云え、日曜日の夜だけあって、お店には人があまり居ない、というか私しか居ない状況でしたが、その分、ご店主から色々とじゃじゃ麺について教えて頂けました。

まず、じゃじゃ麺の麺ですが、先程、ラーメンのような無水の麺ではなく、平たいきし麺のような独特の麺を使うのが本場であり、不来方でも写真⑤ような平打ちうどんかきし麺のように感じられる独特の麺でした。(写真⑤)
⑤麺はきし麺のような独特の平麺

これに、特製の肉味噌とキュウリ、ネギをかけ、好みに合わせたトッピング(私の場合はチャーシューです)をします。(写真⑥)
⑥肉味噌とキュウリ、肉味噌の奥にネギ、
チャーシューのトッピングと右は薬味類

そして、これに、薬味としてラー油、お酢、おろしショウガやニンニクをかけ、グワーッと良くかき混ぜ、写真⑤のような状態にします。

この肉味噌とキュウリと麺等が良く絡んで、甘辛くとても美味しいです。ラーメンとも和麺とも違うこの食感は独特ですね。東京で食べるじゃじゃ麺とも違い、独特の盛岡らしさを感じます。

食べながら、ふと目に留まったテーブル上写真⑦左の”ちーたんたん”。
「これは何ですか?」とご店主に聞きましたところ、写真⑦の右側ようなものであることが分かりました。(写真⑦)
⑦ちーたんたん
うどん・そば等の和麺によくある「蕎麦湯」をベースにして卵で溶いたスープです!

これもなかなかでした。「蕎麦湯」って栄養価が高いと言われていますよね。やはり盛岡じゃじゃ麺も独特とは云うものの、和麺と同じような製作方法で、その茹で汁は栄養価が高く、スープにするのですね。

この盛岡じゃじゃ麺、ご店主のお話ですと、戦前の旧満州で、中国人たちが寒い冬等に良く食べる家庭料理の味が忘れられず、終戦後、盛岡に復員されてきて、日本の麺等の食材を使って屋台を始めたのが始まりだそうです。

そして盛岡の人たちの舌に合うようにアレンジを繰り返し、「じゃじゃ麺」としての独特の味を形成したのだそうです。

宇都宮餃子と同じような経緯ですね。

面白いのは、宇都宮餃子も満州でのスイトンから。このじゃじゃ麺も満州。

満州は冬場はかなり寒いのです。

盛岡等東北も宇都宮もかなり寒い土地で満州に似ています。そういう気候の共通性もあるので、親しみやすい料理となったのではないでしょうか?

◆ ◇ ◆ ◇
「不来方(こずかた)」って洒落た名前をお店につけたなあと、この時は思いましたが、翌日見て廻った市内の「盛岡城」は、地元の南部氏に盛岡と名付けられる前570年間は「不来方城」と呼ばれていたことを初めて知りました。(写真⑧)
⑧盛岡城は570年間「不来方城」だった

また、岩手を代表する石川啄木の詩に
⑨盛岡城にある啄木の詩

不来方(こずかた)の
お城の草に寝ころびて
空に吸はれし十五の心

というのがありましたね。(写真⑨)

この不来方という地名、お店でちょっと洒落ているなあと感じたのは、「来ない方」なんて、山下達郎の大ヒット曲「クリスマス・イブ」の中の「きっと君は来ない」の歌詞を彷彿させるじゃないですか。恋愛チックでロマンスがあるなあと思ったのです。

ところが、由来を調べると福島県いわき市の勿来(なこそ)と同じで、「来ないで欲しい方」、勿来も「な来(こ)そ」すなわち「来るなかれ」。

これは、当時京にあった朝廷から「こっち(京)へ来るな!」と言われていた地名ということです。酷いですよね。

「マイナー・史跡巡り」の中尊寺金色堂シリーズで描いていますが、結局朝廷は力があるけど従わない東北の蝦夷(えみし)を敵視すること甚だしい歴史の傷が、この「不来方」という名前にあるのです。

全然ロマンチックでないですね。それで南部氏は、この城の名前が良くないと考え「盛岡城」にしたようですよ。

また長くなりました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。