クロアゲハの羽化

最近は、上野のパンダの赤ちゃんの話題が明るいニュースとして流れていますね。
我が家も1つ明るいニュースがありました。

我が家に生えているカボスに毎年アゲハチョウがやってきては卵を産んでいきます。
そして卵はふ化し、幼虫と化しています。

最初の頃は、「カボスの葉が全部食べられてしまう!」と焦りながらも、面倒くさいので、何もしないでいると(笑)、いつの間にか居なくなっています。

どうやら鳥に食べられたようです。

しかし、次々にアゲハはやってきて産むのでしょう。
ひっきりなしにと幼虫は産まれ、そして消えて行きます。
結果的にカボスは守られ、毎年良い実を付けます。

しかし、アゲハの幼虫は可哀想に、毎年全軍鳥に食べられているようです。

そこで、流石に可哀想に感じたのでしょう。妻が今年は幼虫を2匹を保護しました。
そのうちの1匹については、見事写真のようにクロアゲハに羽化したので報告します。(写真①)
①羽化したクロアゲハ

採取してきたのは、5月下旬頃ですが、すんごい大食漢で、6月3日は、写真のように、幼虫~!って感じになっています。確かにこれは目立ちますね。(写真②)

とはいっても、葉と同系色であり、いつも日中は、カボスの葉の裏でじっとしています。
目のように見えるところは、食べに来た鳥等を驚かせるためのカモフラージュで、本当の顔を目は、写真の口先に見えるところの下に、小さくまとまっています。
②6月3日時点での幼虫
それでも、やはり鳥に見つかると無情にも食べられてしまうのですね。
幼虫は幼虫なりに考えて、葉の裏でジッとしているのに、世間の風は冷たい(笑)。

で、こやつらは、夜間に大量にカボスの葉を食べます。「はらぺこあおむし」という絵本を読まれた方多いと思いますが、あれはあながち大げさではありません。

ただ、こやつらが健気なのは、親のアゲハ蝶の顔なぞ見たこともないだろうに、親には絶対の信頼を置いているのです。

というのは、こやつら、絶対に自分が産み付けられた木の葉しか食べません。
ある山椒の樹に産み付けられた幼虫は、その山椒の葉のみ、カボスに産み付けられた幼虫はカボスのみ。他の葉を与えても食べずに本当にそのまま飢えて死んでしまうのです。

という生活を、羽化して2週間程度重ねると、急に写真③のようになり、動かなくなりました。
③急に食べなくなり枝で停滞します

そう、蛹(さなぎ)になるのですね。(写真④)

④蛹になりました
そして、それから2週間。
昨日の朝、写真のように、立派なクロアゲハとなり、蛹から羽化しました。

昨日の朝は、小林麻央さんの悲報が流れていた時だっただけに、毎年鳥に食べられ続けていた、この新しい命を一匹だけでも孵せたことが嬉しくて仕方ありませんでした。(写真⑤)
⑤クロアゲハ1匹孵ることが出来ました

頑張って生き抜いて、またうちのカボスに卵産みに来いよ。と言って放しました。

お読みいただき、ありがとうございました。

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名木探訪記シリーズ① 土肥の大椙

やはり箱根は気持ちよいです!「マイナー・史跡巡り」も、たまにはこのような有名観光地に辿り着けることがあることが救いです。(写真①)

しかし、決して美味しいモノを食べたりせず、時間を惜しんで、コンビニおにぎりばかりの食事ですが(笑)。
①箱根の大観峠からの芦ノ湖
石橋山合戦場から、一々早川まで戻って、旧国道1号を態々登って、大観山へ到着するまでの走行距離は30kmを越えています。(地図②)

②頼朝の戦場離脱ルート(水色線)
と私が車で走ったルート(赤線)

あの前田青邨の名画の場面となった洞窟が見たくて、車を走らせてきました。(絵③)
③前田青邨「洞窟の頼朝」
多くのblog等では、平家軍の山狩りで、梶原景時に見つかった瞬間の、この場面は、「しとどの窟」であるとしていたので、私もすっかりカーナビを「しとどの窟」にセットして、走ってきました。

ところが、大観山から真鶴へ向かう道路を走行中、有名なレーダー局が良く見えるヘアピンカーブを走っていると、何か曰くがありそうな石碑を目撃。(写真④)
④真鶴へ向かうヘアピンカーブに何か石碑が!
向うに有名なレーダ局が見えます
直感的に何か大変重要な事が、この石碑に書いてあるような気がしたので、車をバックして戻し、せいぜい2台しか入れないスペースに止めます。そして石碑のところへ。(写真⑤)
⑤土肥の大椙(おおすぎ)石碑

えっ!ちょっと待て、ここがあの青邨先生の名画の場面の杉があるところ?
と、???状態です。

ここに目指す青邨先生の描いた場所があるようなので、「しとどの窟」は後にして、兎に角調査をすることにしました。このヘアピンカーブから、下の看板に沿って歩けばいいのでしょう。(写真⑥)
⑥土肥の大椙方向を示す石碑
北東へ約400mと書いてある
写真⑥、杖が邪魔してすみませんが、石碑に「北東へ」と書いてあります。
すっかりGoogleマップで歩くことに慣れている私は、早速スマホを取り出し、アクセスしようとします。が、

なんと!電波が入りません!

流石天下の険の箱根ですね。電波専門のレーダー局は直ぐ近くにありますが、携帯電波が入らない。(逆に、レーダーへの干渉を避けるため、携帯電波塔を建てていないのかも。)

こういう文明の利器に慣れ切った怠惰な生活を送っていると、こういう時に困ります。
腕時計は針式では無く、歩数計兼ねたデジタルだし・・・(T∇T)

仕方なく、私の杖の先端に付いている精度が良くない方位磁石を当てにすることとしました。しかし、なかなか方角が安定しません。

「えいっ、ままよ、こっちじゃ!」とばかりに、勾配を下り始めました。
途中、海等も見えて、良い景色です。気分良く歩いていました。(写真⑦)
⑦海も見えて良い景色

しかし、歩けど、歩けど何も出て来ません。どんづまりに行き当たりました。
2㎞位は歩いたでしょうか。

そうだ!海が見えて、下っているということは、北東ではなくて南東だな。
やはり安物の方位磁石は使えないなあ 等とボヤイて、ゼイゼイ言いながら、坂を登り、先ほどの石碑を通り過ぎ、更に登ります。(写真⑧)
⑧今度はこの道を登る登る
ところが、また石碑から約1㎞上っても、やはり何も出て来ません。もう止めたくなってきました。だいたい道の途中に全く看板がないとはどういうか、とまたボヤキながら、写真⑥の石碑のところまでノコノコと戻ってきました。

さて、もう「しとどの窟」へ行こうか、しかし、石碑に書いてあることが本当だったら、凄く勿体ないことになってしまう。

そう思い悩みつつ、じっと石碑を見ていると、「もしかして、石碑に書いてある→の方向が北東?」

私はそれとクロスする方向の道路を下ったり、上ったりしていました。
しかし、その→が差す方向の写真⑨を見て下さい。
⑨石碑の→が指し示す方向はこちら
道があるようには見えません。
一応、行ってみると、普通ここを降りないだろうと思われる獣道があります。

本当にこの道なのでしょうか?先程の道に比べると遥かに狭いし、土地の人しか入らない道なのではないでしょうか?どうして道案内の看板の1つも無いのでしょうか?

と、またまたボヤキながらも、兎に角行ってみることにしました。(写真⑩)
⑩殆ど獣道
先程の道間違えの疲労と、本当にこの道で良いのかとの不安で、ヨロヨロしながら、この獣道から外れそうになりながらも、杖で転落しないように踏ん張りながら歩くこと10分。
綺麗な清水が流れ出ています。(写真⑪)
⑪清水です

ふと、熊は大丈夫だろうか?という思いが浮かんできました。

箱根に熊が居るかどうかは知りませんが、昔は大人しいとされた月の輪グマでも、最近襲われて死亡する例が絶えないですよね。こんな清水が出るところ、水を飲みに現れそうじゃないですか。

ヤバい、ヤバいと言いながらも、尚奥地へと向かいます。
もう史跡巡りというより、探検に近くなってきました。

しばらく行くと、今度は木橋が!(写真⑫)
⑫かなり古そうな木橋です
これも、苔なぞしっかり生えて、かなり古そうです。
踏み抜いて、転落。怪我したところに、熊が・・・(´;ω;`)

妄想力が高まっている時は、そろそろ止めた方がいいですね。正常な判断が阻害されます。
あと3分歩いて何も無かったら、戻ろうと決めました。

もう執念です。この3分間は長い・・・。
ところが・・・

1分切ったところでありました!!待望の看板です!!
思わず1人でガッツポーズ。(写真⑬)
⑬待望の看板がありました!

途中不安がらせないように、もう少し道案内出して欲しいです。
兎に角到着、諦めないで本当に良かった!!

頼朝達が隠れたという大杉は大正6年(1920年)に台風で倒れてしまったらしく、小高く盛られた築土の上に大杉の跡の石碑がありました。(写真⑭、⑮)
⑭築土の上に石碑があるのみの大椙跡

⑮大杉の説明文(何故か大椙ではなく大杉)
マイナー・史跡巡り」でも掲載しましたが、この大杉が倒れる前の写真が残っています。(写真⑯)
⑯倒れる前の大杉
確かに大きな杉の洞(ウロ)ですね。ただ、7人も大の男が入ったら、満員電車状態です。7人も入れないかも知れません。

青邨先生の名画は、この洞をイメージしたものではなく、きっと「しとどの窟」だと思われます。次回、「しとどの窟」の紀行文で写真等を掲載します。

しかし、苦労しましたが、私はあの梶原景時に見つけられた瞬間の頼朝が、彼の人生の中で、一番窮地に立った時だと思うのです。青邨先生もそう思われて描いた頼朝の表情、深いと思いませんか?
自信すら感じさせるその笑みのように見える表情に、青邨先生はどういう意味を持たせたかったのでしょうね。

次に思ったのは、こんな山奥、良く頼朝たちも来たものですし、平家側だった梶原景時も見つけたものです。私自身が苦労しただけに本当に感心します(笑)。

成果が出たことに安心し、そんな事を考えながら、元来た道を急ぎ、次なる「しとどの窟」への史跡巡りを続ける私でした。

長文お読みいただき、ありがとうございました。


---Blog「マイナー・史跡巡り」(三浦一族② ~石橋山合戦~)

石橋山合戦 小話① 石橋山古戦場

石橋山合戦について、拙著マイナー・史跡巡りに描いています。
これら史跡巡りでの、調査状況(?)について、またつらつら(Tsure-Tsure)と書いていきたいと思います。

1.三浦軍停滞箇所(小田原PA)

まず、石橋山古戦場へ向かいます。
東名高速厚木経由で、小田原厚木道路に乗り換え、小田原PAで休憩。

ちょうど、このPA辺りが、三浦軍が増水した酒匂川を越えられず、停滞し、大庭景親所領の建物に火を付けて廻ったあたりです。(写真①)

①三浦軍が足止めされた場所(小田原PA)
から石橋山方面を臨む

その火は石橋山へ登った景親から良く見え、怒った景親は三浦軍が酒匂川を越えられないうちに、寡少な頼朝軍をやっつけてしまおうと思わせる動機になりました。(軍配置図はこちら

現在のように、鉄塔やら電線やらの建造物が無い時代ですから、良く見えたのでしょうね。三浦軍も火など無駄に点けずに、淡々と石橋山へ向かえば良いものを・・・。等と考えながら、小田原・厚木道路から、車を国道1号を西に走らせます。

2.石橋山古戦場到着

山と海岸が迫っているところ、急に「石橋山古戦場⇒(こちら)」みたいな看板が現れ、急ぎ右折、数百m位坂を上ると、写真②のような石碑があり、無事古戦場に到着という感じです。(写真②)※地図はこのblogの最後にあります。

②石橋山古戦場の石碑

古戦場、意外と海が近いです。(写真③)
③古戦場から見える相模湾
3.佐奈田霊社

さて、石碑から少し登ったところに、「佐奈田霊社」があります。(写真④⑤)

④佐奈田霊社入口

⑤境内にある与一塚(佐奈田与一の塚)

霊社自体は、改修工事中でした。与一塚の奥の坂を下りて行きます。
もしかして、この斜面を俣野五郎と転げ落ちたのかな?(写真⑥)

⑥与一が俣野五郎と組討ち転がり落ちた坂?

そういう坂だとは看板等には全く説明が載っていませんが、この階段を下りきった所が、マイナー・史跡巡りにも載せている与一の討死の碑が建っている場所なのです。

4.ねじり畑

さて、ここで、マイナー・史跡巡りには書かなかった2つの伝説(?通説)をご紹介します。

1つは「ねじり畑」です。「マイナー・史跡巡り」に掲載している与一討死箇所の写真には、この言葉が写っています。

どうやらこれは、与一が俣野五郎と上になったり、下になったり、ねじれにねじれた取っ組み合いの後に、長尾新六に討ち取られてしまったので、与一のねじれた霊が、そこの畑で採れる野菜全てねじれるようにしてしまったというものです。(写真⑦)
⑦ここの畑で採れる野菜は全部ねじれると言うが・・・
しかし、写真⑦を見ると分かる通り、与一の討死した「ねじり畑」の箇所は、畑というよりは荒地になっていました。やはり、本当にねじれてしまうので、皆気味悪がって、ここでの野菜の生産は控えたのでしょうか?

ちなみに、20~30m程度離れた箇所では、写真⑧のように野菜を作っているようです。何か実っていれば検証できたのですが、残念ながら、まだ実りの季節ではないようです。(写真⑧)
⑧少し離れた箇所にはちゃんと畑がある

もう1つの通説は、ちょっと理解が難しいので「マイナー・史跡巡り」への掲載を控えたのですが、ここでは、そのまま話をします。

与一と俣野五郎が、組討ち、捻じれながらゴロゴロと斜面を2人で転がり落ちたのに気が付いた俣野五郎方の味方、長尾新六。俣野五郎の助太刀に、2人が組んでいるところに来ましたが、上になっている人が五郎なのか、はたまた下が五郎か?(絵⑨)
佐奈田与一
⑨俣野五郎景久を抑えつける佐奈田与一

暗闇の中の乱闘なので分かりません。新六大声で「五郎殿、助太刀致す!どちらが上か!」と怒鳴ります。

すると、咄嗟に与一が「上が五郎、下が与一!」と叫び返します。

それを聞いた俣野五郎が「ちがう!ちがう!上が与一、下が五郎!間違えるな!」と呼ぶのです。するとまた「いやいや、騙されるなよ!上が五郎、下が与一。」

新六は、俣野五郎の声を知らなかったのか、与一と五郎の声がよく似ていたのか、兎に角分からないので、ままよっ、えいっ!と刀を上の人に振ったところ、ビンゴ!

というお話です。

このお話の納得がいかない点は2つですね。

1つは、「マイナー史跡巡り」に書いた通り、痰が絡んで声が出なかった与一の話と、この話は矛盾します。

⑩オトコマエだった与一
もう1つは、もし新六が、与一の言い分を信じて、間違えて味方である俣野五郎を討ち取ってしまったら、どうなるでしょう?

イケメン・長身だった与一は、後世、特に江戸時代に歌舞伎の花形が演じる程のアイドル振り。しかも、頼朝公を身を挺して守った忠義に篤い漢(おとこ)。

このイメージが崩れませんか(笑)?
騙し討ちを与一がしたことになるのですから。(絵⑩)

5.文三堂

その一方で、与一の家来だった文三家安57歳は、残念ながら与一を救えなかったですねぇ。しかし、それを悔いた文三は8人も斬り倒して、壮絶な最期を遂げるというのが、やはり泣かせるのでしょうね。高齢にも係わらず8人ですよ!

凄いなあ。私も見習わないと(笑)。

なので、その功績を讃え、意外と立派な文三堂が建てられたのでしょう。(文三堂の写真はここをクリック

しかし、このお堂も、やはり石段の上にあります。やはりこのような急斜面では、高いところに建物を建てないと、雨等に流されちゃうのでしょうか。(写真⑪)
⑪石畳の先の文三堂
実は、途中私の杖の先に付いている方位磁石を落としまして、これらの石段を2往復しました。かなりドジです。

ねじり畑で見つかったのは良かったのですが、その後、写真⑥の佐奈田霊社石段を登るのは、もう疲れたので、そのまま、石段ではない坂道を歩いていますと、なんとすぐ横を東海道線が走っています。
(写真⑫)

⑫古戦場の横を走る東海道線と私の杖(先端部分ありました)

⑬艦砲射撃されやすそうな・・・
明治時代の昔、鉄道を海岸沿いに敷設しようとしたところ、軍隊からクレームがついたそうです。つまり、外国の艦砲射撃の対象になると。

その頃の輸送の主力は、やはり鉄道でしたし、東海道線なんて、日本の輸送の大動脈。

しかし、ここ石橋山では、箱根の外輪山が険しいので、艦砲射撃のリスクを甘んじてしか、敷設できなかったのかなあと思いながら、石橋山古戦場を後にして、次は、頼朝たちが隠れ潜んだ洞窟を目指して、車を走らせました。

お読みいただき、ありがとうございました。

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頼朝の旗揚げ 小話① 山木判官兼隆屋敷跡

さて、今回の「マイナー・史跡巡り」は頼朝の旗揚げの話でしたが、史跡を巡った時の私の苦労話等も、少しさせて頂ければと存じます。まずは、旗揚げの攻撃対象とされた山木判官兼隆屋敷の調査模様のレポートです。

石橋山の合戦場、土肥実平の領地だった湯河原の辺り等、頼朝が逃げ回った箇所を調査した後、旧国道1号沿いに、伊豆は三島方面に車を走らせます。(写真①)

①箱根から三島方面へ

見えてきました狩野川流域、函南(かんなみ)。ここから伊豆韮山(にらやま)辺りまでは、もう史跡の宝庫です。同じ場所に、時代の異なる史跡がいくつも折り重なる場所です。(写真②)

②函南が見えてきました
蛭が小島の辺りも、写真③のように真っ平です。蛭が小島から狩野川方向を見た地形です。

③蛭が小島から狩野川方面を臨む
「マイナー・史跡巡り」の上空写真(下の地図④)では、狩野川は蛭が小島からかなり北西側を流れており、が、この平らさから分かるように、過去この辺り一帯も狩野川が流れており、蛭が小島もその川の中洲だったことがあるようです。

この下の地図見て頂くと分かりますが、地元の北条時政の守山城は言うに及ばず、韮山城(北条早雲の居城)、江川邸(江川太郎左衛門の代官屋敷)、山木判官屋敷等は、皆丘陵地帯に建っていますね。これは当時、狩野川が氾濫しても、大丈夫なように皆ちょっとした高台に建っているのです。

少々高くないと湿気が多く、当時は労咳等の病気にもなりやすいと思われます。

頼朝は一応、配流人(罪人)なので、このような地元の名士が住むような丘陵地ではなく、氾濫地帯・湿気が多い等、条件の悪い蛭が小島に住まわされたのではないでしょうか?

④蛭が小島の周辺(「マイナー・史跡巡り」再掲)
地図④を見て頂くと分かるように、山木判官屋敷跡は、江川邸の直ぐ近くです。

なので、私は江川邸の駐車場に車を置き、目の前の方向案内に従って、山木判官屋敷跡へ向かいます。(写真⑤)

⑤江川邸駐車場前にある方向案内
明らかに山木判官屋敷跡の指示が
しかし、不思議な事に、この方向指示以降、⑤の写真で示す道の方向(写真⑥)を行けども行けども、屋敷跡の案内等は出て来ません。(写真⑥)

⑥確かにこの道沿い右手側に山木判官屋敷
があるはずなのですが・・・
とうとうこの写真⑥に見える一番奥の山端まで到着してしまいました。

そこで、この道端でネコに餌をあげている30代の女性に、屋敷跡について訊いてみました。

「あの・・・、」
「はい」
「やまきはんがんのお屋敷って、この辺りですよね?」
「はい、ここが山木ですが。」
「あ、はんがん」
「ハンガン?ですか?」
「ほうがんだったっけかな?」
「ホーガン?・・・・」
「すみません、頼朝にやっつけられた山木さんです。」
「ごめんなさい。私、歴史は全然分からないです。」
「あ、こちらこそ失礼しました。ありがとうございました。」

きっとハルク・ホーガン、ご想像されたに違いありません。私の訊き方が悪かった(笑)。

仕方なくスマホの地図頼りに、来た道を戻りながらウロウロしていると、また家の庭で小さな娘さんと庭木を切っていた30代のパパさんが、

「何かお探しですか?」
「あの、山木判官の・・・」
「あ、かねたか(兼隆)ですね。その南の山側が屋敷跡らしいんですけどね。この先南に入った先を小さな小道を行くしかないですよ。私道ですし、屋敷跡にはなんにもありませんよ。」
「ありがとうございます!」

礼を言い立ち去ると、後ろの方で、「おい、あの人なんだって?」「いつものカネタカだよ。」と家族で話をしているのが聞こえました。沢山いらっしゃるのでしょうね。私みたいな人。

ということで、何とか山木判官兼隆屋敷跡に辿り着くことが出来ました。(写真⑦、⑧)

⑦山木判官屋敷跡 
殆ど畑と雑草地しかありません
⑧夏草どもが夢の跡の山木邸
私の杖を突きたてました
今迄も、この手の案内板、石碑一つ残っていない史跡というのは何度も訪問していますので、この山木判官屋敷もそうであってもおかしくはないのですが、流石に驚くのは、写真⑤の方向案内版です。

あの表示の仕方ですと、「何かありそう」と勘違いします。

また、「マイナー・史跡巡り」でも詳細を記述しましたように、頼朝の「源氏再興の吉凶を占う」程、重要な初戦だったのですから、何か石碑くらいあってもよさそうな史跡だとは思うのですが・・・ここで負けてたら鎌倉幕府は無かった・・のですから。

では、引き続き頼朝と三浦一族をお楽しみ頂ければ嬉しいです。

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早川殿 小話(諏訪原城)

さて、今川氏真が一時期城主だった牧野城は、現在Blogにも掲載しました通り、諏訪原城跡として石碑等が建っております。(写真①)
①石碑は牧野城ではなく諏訪原城

これは、最初にこの城を築城したのが武田勝頼で、城内に、彼の母方湖衣姫方の先祖である諏訪氏の諏訪大明神を祀ったことから、その名で呼んでいました。

武田は、信玄公の頃から、駿河まで拡大した領土を、更に家康に分割を約束した遠江に拡大して行きたいと強く望み、切り取って行った歴史がありますね。
勝頼も同じで、この遠江に少し食い込んだ牧の原台地に東海道の要としての城を築いたのです。

遺構は割と武田時代のものが、空堀等の作り方等に残っているようです。ですので、諏訪原城址と武田時代の名称で呼ぶのでしょうね。(写真②)
②堀の説明で甲州流の三段掘り
との記述が看板にあります


ここは当時の物流を考えると、非常に重要な拠点です。やはり東海道沿いが、この当時も大動脈ですから。
写真③は本丸からの景色です。東海道方面、奥には駿河と遠江の国境である大井川も見えます。(写真③)
③本丸からの景色

当時武田の防衛線でもあり、侵略の最前線、高天神城への補給路でもありました。

長篠の戦いで弱った勝頼から、家康はこの城を奪取するのです。
家康は、この城を奪取したのが余程嬉しかったらしく、中国の故事に習って、牧野城と改名したようです。
また、氏真を1年足らずで城主解任していますが、やはり、これ程重要な拠点の城主に氏真は向いていないと判断したのでしょうね。

明治になり、徳川慶喜が将軍職を辞し、駿府に引っ込むと、随従した沢山の旧幕臣たちを喰わす手立てがないので、彼らに頑張って茶畑を開墾させます。
その中心となるのが、この諏訪原城址一帯なのです。
現在も、城址の周りは、茶畑だらけとなっています。(写真④)
④城址の中までこのように茶畑が

まあ、茶畑のお蔭で、結構遺構が残っているという話もあります。

しかし、この城に新しく作られた、この門もどきは何の意味があるのでしょうか?(写真⑤)
⑤門もどき?

ご存じの方がいらしたら、是非お教えください(笑)。

---Blog「マイナー・史跡巡り」(北条氏康の娘たち② ~早川殿~)